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壁の向こうには闇しかなかった…再び呼び戻された東ドイツの記憶

壁の向こうには闇しかなかった…再び呼び戻された東ドイツの記憶

Posted February. 24, 2024 08:39,   

Updated February. 24, 2024 08:39

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「叔母が西ドイツから送ってくれたジーンズは希望でした。東ドイツの服はほとんど着ませんでした」

青年期を東ドイツで過ごしたある女性は、こう振り返る。それでも彼女は、2021年のドイツ統一記念日の行事で、「東ドイツでの生活は貧しかったという偏見」に不満を表明し、同年の退任式では東ドイツ時代の歌「カラーフィルムを忘れたのね」を演奏してほしいと頼んだ。この女性は、統一ドイツで16年間も首相を務めたメルケル氏だ。

同書は、1990年10月3日に消滅したドイツ民主共和国(DDR)、私たちが「東ドイツ」と呼んでいた国についての記録だ。多くの一般市民の回顧、証言、記録が幾重にも重なり、消えた社会について立体的に描かれている。

1949年に発足した東ドイツの建設は、最初から苦難の連続だった。西ドイツをはじめとする西欧がマーシャルプランで援助を受けるとき、東ドイツは強奪に苦しんだ。45~53年、東ドイツの経済生産の60%が戦争賠償金としてソ連に支払われた。学者や技術者も家族と共にトラックに乗せられ、ソ連に向かった。

53年、物資の不足とソ連の干渉に抗議する「6月17日蜂起」が起こった。高級人材を中心に300万人以上が西側へ逃げたため、東ドイツ政府は61年に壁を設置するという強硬策を講じた。人道的な面では残酷だったが、社会を安定させるには効果があった。

優等生だった西ドイツと比較されるのが不運だっただけで、東ドイツも経済発展を経験した。国民車「トラビ」は10年待たなければ手に入らなかったが、88年には東ドイツの半分以上の世帯が車を持つようになった。普通の家庭も車に乗ってプラハや北方の海岸に休暇に出かけた。厳しかった過去は昔話となったが、年をとって西ドイツに親戚の訪問許可を得た人々は、自分たちにはなくて買えないものが、兄や姉の町では不要で捨てられる光景を目にした。

東ドイツ出身の英国人で5歳の時に統一を経験し、その前年のベルリンでの民主化デモを覚えている著者は、「故郷の国」の暗い面を隠さない。投票は賛否を記入するだけの形式的な手続きであり、シュタージ(秘密警察)の厳しい監視体制には最高権力者のヴァルター・ウルブリヒトもうんざりしていた。西洋の豊かさをなんとかして真似ようと努力したが、コーヒーを調達することさえ容易ではなかった。

この国が保持していたいくつかの明るい面も同書は提示する。女性の91%が労働に参加し、子どもたちは質の高い公共施設に預けることができた。大学進学率も西ドイツよりはるかに高く、大学生の3分の1は労働者階級の子どもたちだった。60年代以降、この国の生活は「退屈で平穏だった」と著者は言う。酒類消費量が西ドイツの2倍だったのも「生活が耐えられないから」ではなく、「他にすることがないため」だったということだ。

昨年発売された同書は「旧西側」で良い反応を得た。米紙ニューヨーク・タイムズは、「この本は、消えた国への信望ではなく、残酷な状況での人間の回復力に対する賛辞を見せてくれる」と評した。東ドイツ体制を記憶するドイツでの評価は交錯した。東ドイツ出身の歴史学者イルコサシャ・コヴァルチュク氏は、「この本は国家が市民の日常生活に及ぼす抑圧を軽視している」と批判した。

ウルブリヒトの後を継いだ東ドイツ共産党書記長エーリッヒ・ホーネッカーは72年、軍隊視察中に「西ドイツは外国だ」と宣言した。2年後、「憲法からドイツ民族という表現を消せ」と命じた。その16年後、国家は消滅した。私たちはいつになったら「過去の半分」に対する微視的で総合的な評価が可能になるのだろうか。


ユ・ユンジョン文化専門記者 gustav@donga.com