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畑を耕す人

Posted April. 29, 2020 08:32,   

Updated April. 29, 2020 08:32

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牛にすきを引かせて畑を耕す人がいた。彼は、間食の時間になると、人々に食べ物を分けた。ところが、働いていなかった人が人々の間に立っていた。彼は、癪に障って話した。「土を起こして種をまいてから食べなさい」。働かなかったから食べる資格がないということだった。すると、その人は自分も畑を耕して種をまいていると言った。

彼は慌てて、何を根拠にそんなことを言うのかと聞いた。すると、その人は答えた。「私にとって信頼は種です。苦行は雨で、智慧はスキや手ぐわで、羞恥心は手ぐわの柄、意志はスキをつなぐ縄、考えは手ぐわの刃と棒です」。この話をしたのは仏陀だった。肉体労働だけが仕事だと思っていた人は、その喩えから悟りを得て、仏陀に牛乳のおかゆを渡した。すると仏陀は、見返りを期待して話したのではないので、受け取らないと言った。供養は見返り、つまり取り引きするものではないという意味だった。それでもあげたいなら、他の食べ物をくれと言った。すると相手が聞いた。「ならば、この牛乳のおかゆは誰にやれば良いですか?」。すると仏陀は、誰も食べられないおかゆだから、「生き物がない水の中に捨てなさい」と言った。もったいないおかゆを捨てろと言うので、呆れたものだと思ったが、彼は仏陀の言う通りにした。ところが、おかゆを水に注ぐと、音を立てながら泡が立った。まるで日差しに熱くなった手ぐわの刃を水に入れる時と同じだった。傷んだおかゆだったのだ。食べると命が危なくなるかもしれないおかゆだったのだ。そのブラマンは、そんなおかゆをもって食べる資格があるかないかにこだわり、「労働後の食事」という形式論理で仏陀に迫っていたのだ。

「サイの角のようにただ独り歩め」という、修行者のための文言が書かれた仏教最古の経典「スッタニパータ」に出てくる話だ。仏陀は、ほぼ同時代を生きたソクラテスと同じように、対話を通じて相手を悟らせた。法頂和尚が翻訳したスッタニパータで「目覚めた人」と訳された仏陀は、そういうやり方で人々を目覚めさせた偉大なる師匠だった。

文学評論家・全北大学教授