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刀を持ったソンビの金昌淑

Posted March. 29, 2019 09:01,   

Updated March. 29, 2019 09:01

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10代と70代の字体が同じ人がいる。独立運動をして日本帝国の過酷な拷問と長い刑務所での生活で身体障害者になった心山・金昌淑(キム・チャンスク)だ。生涯現実と妥協せず、大意と志操を守ったソンビ(士という意)の象徴的人物だ。心山は羅錫疇(ナ・ソクジュ)義士の東洋(トンヤン)拓殖会社の爆弾投擲事件の主導者として懲役14年を言い渡された。臨時政府の時、李承晩(イ・スンマン)の弾劾を導き、光復(日本植民地からの独立)後は李承晩の「下野警告文」を発表して李承晩の失政と独裁を辛辣に批判した。心山は84年間の生涯を完全に祖国の独立、統一政府の樹立、反独裁民主化に捧げた。

角の強い角と最後筆画が折れて、かなり長く上がる特徴は、独立運動家の中でも意志が人並み外れていることを物語っている。心山は幼い時から性質が頑丈で、負けず嫌いだったので、一緒に遊んでいた群れが皆嫌って避けたという。「逆賊を糾弾しない者も逆賊だ」と主張したことや、「私は捕虜だ。捕虜として見苦しく生きようとするのは大恥だ。決して私の志操を変えて、他人に弁護を頼んで生きることを求めない」と弁護士の弁護を拒否したことを見れば、彼女の剛気を知ることができる。

小さな背丈の文字が正方形をなしており、正しくて現実感覚が優れ、冷静だったことが分かる。心山は、「聖賢が世界を救済した意思を知らなければ偽士だ」と話し、儒学経書を読んで横柄なソンビではなく、時代悪とすさまじく戦った「刀を持ったソンビ」の道を歩んだ。心山は乙巳条約が締結されると、宮殿の前で乙巳五賊の首を切ることを上疏したが、志を得ることができなかったので、「扉を閉めて、文章ばかり読んでいる場合ではない」と主張しながら、国債補償運動と国力自强運動に飛び込み、巴里藏書運動を主導した。整頓性と規則性が際立つことを見れば、言葉と行動が一致したことが分かる。晩年に家一軒持たず、旅館や親戚の家を転々とした末、病床で寂しく息を引き取ったが、心山は孤独ではない。