Go to contents

韓国文学の中の韓国戦争、悲劇から同質性の回復まで

韓国文学の中の韓国戦争、悲劇から同質性の回復まで

Posted June. 21, 2010 07:47,   

●南侵から休戦まで、韓国戦争の惨状

「人民軍が38度線の全域にわたって南侵したというニュースを聞いたが、以前から38度線では衝突が多く、その度に韓国軍がうまく退けてきたので、軽く考えていた。……しかし、学校からの帰り道は、朝と少し違った……翌朝には、砲声がミアリ峠の向こうから突き刺すように聞こえた……帰り道は、時々刻々と差し迫る戦雲が漂っていた。途切れることのない砲声に、道を歩いている人々は右往左往しているように見えた」(朴婉隺『新女性を生きよ』1992)

50年6月25日未明、北朝鮮軍の南侵で始まった同族間の争いの悲劇。南侵1日で、議政府(ウィジョンブ)を占領した北朝鮮軍は、28日にソウルを占領した。韓国戦争の体験に根ざしている小説家・朴婉隺(パク・ワンソ)氏の作品の中には、北朝鮮軍がソウルを占領した当時の混乱した様子がよく描かれている。『母の杭』(1982)、『新女性を生きよ』など、朴氏のいくつかの作品では、さわやかな6月に突然に起こった戦争とそれによる恐怖、危機感が描写されている。

人民軍にソウルを侵奪された連合軍と韓国軍は、3ヵ月後の50年9月28日、ソウルを奪還する。幼年期の戦争体験をもとに、戦争と分断の傷を形象化してきた金源一(キム・ウォンイル)氏は、大河小説『火の祭典』(1983)で、二転三転する戦争の展開を総体的に眺望した。50年1月から10月までの韓国戦争の過程を描いた同作品には、当時の市街戦の残酷さが描かれている。

「3ヵ月前、1日で世の中が変わったように、3ヵ月後、本当に1日でまた変わってしまった世の中…世宗路(セジョンノ)の方を見ると、光化門(クァンファムン)前の広場にゴミの山が王陵のように積み上げられた。韓国軍が、中央庁から何かを運んできて、ゴミの山に投げている。死体だ。積み上げられた死体の服は白が多い。軍人ではなく民間人だ」

戦争の残酷な人命殺傷は、惨状そのものだった。

「それは、焼け死んだ死体の山だった。屋根のブリキやわらなどで隠していたが、百体に近い死体が積み上げられた」(張龍鶴『現代の野』1960)

趙廷來(チョ・ジョンレ)氏の大河小説『太白山脈』(1989)は、韓国内の左翼勢力の活動を中心に、48年の麗順(ヨスン)事件から53年の休戦協定が調印されるまで、韓半島で起こったことを多くの人間の群像を通じて記録している。

●破壊された人生…ヒューマニズムで克服

戦争で破壊された個人と共同体は、金東里(キム・ドンリ)の『帰還壮丁』(1950)、崔泰應(チェ・テウン)の『東部戦線紀行』(1953)など戦争当時の50年代の戦時小説から、崔仁勲(チェ・インフン)の『広場』(1960)、洪盛原(ホン・ソンウォン)の『南と北』(1987)などの分断文学に至るまで、様々な形で記録された。

呉尚源(オ・サンウォン)の『猶予』(1955)、鮮于鎈(ソン・ウフィ)の『花火』(1957)は、戦争状況での人間の実存問題を扱っており、孫昌涉(ソン・チャンソプ)の『雨が降る日』(1953)、李範宣(イ・ボムソン)の『誤発弾』(1959)は、戦後の無気力と挫折などの後遺症を描いている。

「友人にはまだ階級意識が残っている…もう一度考える余裕を与えよう。1時間後、友人の返事がすべてを決定するだろう……もうろうとした意識の中、たったいま過ぎ去った対話がよみがえる……歩く度に足もとでつぶれる雪、そして、マシンガンを背中に感じて、先頭に立つ人民軍兵士について、崩れたわらぶき家の塀を持ってこの穴の中の監房に来た自分が、心の中で浮かび上がる」(呉尚源『猶予』)

侵略と反撃が交錯する境界地帯では、イデオロギーのために村の共同体が分裂したり家族が対立することが多かった。黄順元(ファン・スンウォン)の『鶴』(1953)、『木々、傾斜に立つ』(1960)、尹興吉(ユン・フンギル)の『梅雨』(1973)、河瑾燦(ハ・グンチャン)の『受難二代』(1957)などの作品でこの様子が描かれている。

黄順元の『鶴』は、戦争の渦中、韓国軍と人民軍に分かれざるを得なかった2人の友人の葛藤と和解を描いた。イデオロギーの虚構性を告発し、ヒューマニズム、民族の同質性の回復を通じて戦争による傷の文学的処方を提示したのだ。



teller@donga.com