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[オピニオン]身体布施

Posted August. 21, 2002 22:22,   

仏教の実践徳目の一つとされる布施(ボシ)は、元来3種類あった。財物で施す財施と、仏の真理を教える法施、そして恐怖と困難から救済する無畏施がそれ。最近では、布施の範疇も広くなっている。必ずしもこの三通りでなくとも、自分の持つ能力と時間を隣人と分かちあえるものなら、全て布施と言えるだろう。仏門では、他人にいつも笑顔を見せることや、温かい心で奉仕する姿勢、譲り合いの精神、周りをきれいにすることなども、皆布施であると説いている。

◆そういえば、布施は仏門に限らず、世の中のたくさんの人たちが実践すべき徳目である。外国に比べると、まだまだ低いレベルに止まっているが、最近、わが国にも少しずつ「布施の文化」が芽生えている。収入の1%を分かち合うことに使うとか、遺産の10%を隣人のために寄付するといったキャンペーンが展開され、それなりに好評を得ている。ついこの間は、北朝鮮に故郷を持つ80歳のカン・テウォン翁が、恵まれない隣人たちのために270億ウォンを喜捨したのに続いて、教授出身事業家のファン・ピルサン氏は、215億ウォンの財産を大学に寄付した。30年間、露天商で築いた全財産の多世帯住宅を大学に寄贈した老人もいる。

◆今度は、慶尚南道梁山(キョンサンナムド・ヤンサン)にある通度寺(トンドサ)の僧侶ドウが、末期の肝臓がんを患う患者のために肝臓の一部を提供した心温まるニュースが、話題となっている。体の痛い人に自分の体の一部を分け与えた訳だから「身体布施」と呼べるだろう。患者服を着て笑顔を見せる彼の姿が印象的だ。「何の条件もなく、慈悲の心で施す」という布施の精神を、身をもって実践した20代の僧侶の行いが、美しいばかりだ。3年前、腎臓病を患う患者に腎臓を寄贈したこともある彼は、血液がんを患う患者のために骨髄寄贈の申請までしており、凡人の私たちは、恥ずかしさで頭が上がらない思いだ。

◆このように、財産や体の一部を寄付した人たちの多くが、自分の行いが公開されるのをはばかっている。僧侶のドウも最初「大した事でもないのに、知られたくない」と話しており、多世帯住宅を寄贈した老人は「他人に見せるためにやっているのではない」として、名前が知られるのをはばかった。この人たちは今「左手のすることを右手も気づかないようにすることが、真の布施」だとする彼らの信心が壊れたのを憂いているかもしれない。さ細なことでも恩着せがましくふるまう世の中の俗人たちに比べると、彼らの精神は実に貴いもので大切な宝だ。貪欲と不正がはびこるこの世の中で、僅かながらもこのような人たちいるが故に、この社会が成り立って行けるのである。

宋煐彦(ソン・ヨンオン、論説委員、youngeon@donga.com)