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[オピニオン]3金政治の終えんを

Posted May. 16, 2002 10:52,   

4月は残酷な月か、いや、国民にとっては5月が残酷な月だった。5月の桜が姿を消し、夏の準備をする頃、韓国の地は、残忍な暴力とものさびしい泣き声で包まれた。

5月16日の軍事クーデターは、見知らぬ土地に進入して、開花前の民主主義のつぼみをへし折り、20年後の5月18日の光州(クァンジュ)は、またしても開花寸前の民主主義の夢が、呻吟の中に埋もれてしまった。

今や2002年、韓国民主主義は新しい時代を約束し、明るい日差しと潤いの雨を待っている。果たして花は咲くであろうか。

1961年の軍事クーデターが成功した根本的な理由は、無能で腐敗した民間政府を国民が嫌悪したからである。李承晩(イ・スンマン)の専横と張勉(チャン・ミョン)の無能さに食傷した国民は、軍隊が突きつけた銃刀に、いい気はせずともしかたなく受け入れた。

しかし、彼らの軍事統治が18年も続くとは、夢にも思わなかっただろう。分かっていたなら、おそらく黙ってはいなかっただろう。

その18年間、大韓民国は大いに変化を遂げた。その変化の程度は、開化期から日帝統治に至る社会的激変に匹敵するほどだった。誰がなんと言え、朴正煕(パク・チョンヒ)が、産業化と経済成長を先導したことは否定できない。しかし、それだけ彼は、韓国民主主義を圧殺し国民を弾圧した。

しかし、軍事政権がいくら長くとも、一時的なものでしかない。推進させた経済成長が、ブーメランとなって返ってきたのだ。中産層と知識層をはじめ、民間部門の成長が、軍部・権威主義勢力の力に匹敵するようになり、彼らが抱いた民主主義の念願をもはや力で押え切れなくなったのだ。

朴正煕の悲劇は、自ら生み出したものだった。彼の最期は、変化した状況に対処するには、体制があまりにも融通に欠けたために訪れた。

しかし、残った軍部の力が最後の決戦を準備し、民間勢力は、これに抗することができなかった。その結果が、光州の惨劇と全斗換(チョン・ドファン)政権の誕生である。全政権は、軍事政権時代の条件の終わりに現われたおまけであった。

もとより全政権の治績がすべて誤りであったというわけではない。しかし、それは居場所のない歴史の中でさ迷い、あげくの果てには不名誉を味わいながら消えていった。

盧泰愚(ノ・テウ)政権も、その点ではある程度同じであった。盧泰愚政権は、軍部・権威主義から民間の民主政府に移る過渡期にあり、彼もその点をよく承知していた。

しかし、その過渡期はいたづらに長かった。それは、民間の民主勢力の分裂のためであった。

金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)のいわゆる両金氏は、権威主義政権下で、野党を指導した民主闘士であったが、民主主義の復活を機に分裂してしまった。後に政権を掌握するや、彼らの政治手腕はつたなく、改革能力の乏しさを如実にさらけ出した。

そのわけは一体何か。それは、彼らが権威主義に対抗して闘う訓練はしてきたが、真の民主政治の練習をしていなかったためだ。

両金氏は、軍事政権の残しを取り払い、政治制度を民主化させて政経ゆ着を抑えるなど、政治の発展にかなりの貢献をしたものの、彼らの本質的な限界ゆえ、さらなる害悪を生みだしたのだ。それは地域に根ざした徒党政治だ。軍部独裁が終えんし、ある程度民主主義が定着すると、地域政治、ボス政治、徒党政治がかま首をもたげた。その点からも、韓国民主主義の行く手は、遠いと言わざるを得ない。

韓国政治の発展目標は、過去には独裁打倒であったが、もはや、彼らには申し訳ないが、両金(いや3金)政治打倒になる以外にない。それは地域の徒党腐敗政治を清算して「きれいな政治、分権化の政治、下からの政治」を定着させることだ。

このような新しい政治の枠を築く重要な契機にならなければならないのが、2002年の大統領選挙である。

これは5・16、5・18に象徴される5月の悲劇を終わらせ、民主主義の新しい時代を開く重大な選挙になるだろう。国民は、果たして誰を選択すべきか。誰が果たして3金式の旧態依然の政治を清算して、新しく斬新な、真の民主政治を築き上げることができるのか。「貴族」の李会昌(イ・フェチャン)か、はたまた「不安」の盧候補(ノ・ムヒョン)か。「保守改革」か、それとも「庶民・中産層改革」か。みなが賢明に判断しなければならない。

金永明(キム・ヨンミョン)翰林(ハンリム)大学教授(政治学)