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時代をリードする女性たちが筆を手にした

時代をリードする女性たちが筆を手にした

Posted November. 19, 2022 09:02,   

Updated November. 19, 2022 09:02

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1899年、ソウル景福宮(キョンボククン)近くの北村(プクチョン)に暮らす女性たちの会「讚揚会」が上訴した。彼女たちは、「一人の夫が二人の妻を持つことは倫理に反し、徳を失う行為」と墨で書いた白い布を竿につけて徳寿宮(トクスグン)近くに立てた。その隣で30、40代の女性約50人が座り込み、「上監(高宗皇帝)がまず後宮を追い出せ」と叫んだ。

朝鮮社会には妻妾制度があった。当時、女性たちは直接不満を表せなかった。そのため、妾を置くことは倫理に反しているとして抗議デモを行ったことは、家父長社会に真っ向から挑戦することだった。このデモは毎日午前10時から午後6時まで1週間以上続いた。

梨花(イファ)女子大学梨花人文科学院教授の著者は、朝鮮時代の上言(民が文章で王に直訴すること)と近代啓蒙期の新聞投稿を分析し、社会に向かって正論を叫んできた女性たちの声にスポットライトを当てる。これは、「儒教家父長制社会の受け身の女性像」という固定観念を破る。

本に登場する女性たちは歴史的に有名ではないが、自分の立場に委縮せず問題を解決するために積極的に文を書いた。国政を記録した「日省録」によると、正祖の在位期間(1776~1800)に上言と擊錚(直訴する事案があったときに王が通る道で鉦を打ち鳴らして下問を待ったこと)は4427件に達した。このうち405件は女性たちが提起した。彼女らの出身は両班、平民、妓女、女婢など多様だった。内容も財産、家族、後継など日常の問題がほとんどだった。

近代啓蒙期には新聞が女性たちの声に公的な意味を与えた。1898年、「北村の女中君子」と名乗る人々が書いた「女学校設始通文」が代表的だ。女学校の必要性と女性の権利を主張した文は同年、黄城新聞の別報と独立新聞に掲載された。1899年には、寡婦と明らかにした女性が再婚を妨げる慣習を批判する文を帝国新聞に投稿した。著者は、「沈黙した声が噴出した。しかし、それまで明らかにされなかったからといって、なかったわけではない。彼女たちの言葉を蘇らせ、歴史的意味づけが必要だ」と話す。


キム・テオン記者 beborn@donga.com