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ウクライナの同族争い

Posted July. 19, 2022 09:19,   

Updated July. 19, 2022 09:19

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1941年6月22日、ヒットラーは独ソ不可侵条約を破棄してソ連を奇襲攻撃した。これがバルバロッサ作戦だ。初期のドイツ軍の勢いは凄まじかった。北部、中部、南部の3つの集団軍で構成されたドイツ軍は、それぞれレニングラード、モスクワ、ウクライナに向かって進撃した。7月16日、中部軍集団の先鋒だった電撃戦の父、グデーリアンの作戦指揮で第29歩兵師団がスモレンスクを占拠した。

スモレンスクは、ポーランドからベラルーシを過ぎてモスクワに向かう直線上にある。7月半ば、グデーリアンはソ連軍の逆襲を撃退し、スモレンスクを確実に制圧した。

 

グデーリアンはすぐにモスクワに進撃したかったが、ヒットラーが南に方向を切り替え、ウクライナに向かうよう指示した。ヒットラーにも理由があった。ウクライナは戦略的に最も重要な地域だった。穀物は言うまでもなく、今ロシアが掌握しているドネツ地域は、当時ソ連全体の石炭の60%、コークス75%、鉄30%、鋼鉄20%を生産した。ウクライナに向かった南部軍集団の戦果は思わしくなかった。

 

グデーリアンは南のキーウとドニエプル川に向かった。ドイツ軍は、キーウでソ連軍を完璧に包囲し、100万人を殲滅した。この時からウクライナの悪夢が始まる。数百年間、ウクライナを狙ったドイツは、この豊かな土地はゲルマン人の憩いの場所にならなければならないと考えた。ウクライナ人を保護したり懐柔したりしようとしなかった。事件が起きれば、必要以上に苛酷にふるまった。そのうえ、ナチスの撲滅対象は、共産主義者とユダヤ人だったが、ここは共産圏国家であると共にユダヤ人が最も多く居住する地域だった。

 

終戦まで、ウクライナでドイツとソ連が一進一退の攻防戦を繰り広げる。ソ連軍もユダヤ人に苛酷だったし、ウクライナ人は同族ではなかった。ソ連軍が進軍すれば、民族主義者を殺害し、退けば共産主義者が報復を受けた。国家、理念、民族。韓国が韓国戦争で体験したような悲劇が1940年代、ウクライナで起こった。そして約80年後に悲劇が再演されている。ローマ史に刻まれた格言がある。「憐れな者よ。汝の名は弱者だ」

歴史学者