Go to contents

優しさが私を

Posted February. 06, 2021 08:13,   

Updated February. 06, 2021 08:13

한국어

「多情も病気のように思い、眠れずにいる」。李兆年(イ・チョニョン)が書いた時調の終章だ。なんと高麗後期に出た作品だ。しかし700年間忘れられず、変わらなかったのは時調だけではないようだ。ずいぶん前に詩になったある気持ちを、今日の私たちも同じように感じる。時に詩は時間を越えて来る。

李兆年の「多情歌」が高麗末のものなら、キム・ギョンミの「多情歌」は今日のものだ。もともと多情歌は春の歌だ。春風のように甘くほろ苦い感情が多情(優しさ)である。いたずらに心がそわそわする春の日ほど、感情の氾濫が似合う時はない。しかし、私たちは季節の兆しを失いつつある現代人なので、多情歌を読むには時代は重要ではない。

よく良いものが多ければもっと良いと思う。金はいいもの、だから金持ちはいいだろう。力はいいもの、だから強い人はいいだろう。「多情」という言葉は、情が深いという言葉。だから情が良いものなら、きっと「多情」ももっと良いものでなければならない。しかし、多情(優しさ)は時には病気のように心を痛める。優しさに頼りたい私の心の優しさが、私たちを悲しませている。情は良いものなのに、どうして多情は人を苦しめるのだろうか。どうして今日の多情歌は、甘さを捨てて苦さだけ感じられるのだろうか。

その答えを詩人は知っているし、私たちも見当がつく。優しさが弱点になる日々、優しさが傷つけられる日々、優しさは役立たないと思う日々から、私たちは自由ではない。感情を切り捨てても生きていそうで生きられない厳しい世の中が実感される。また長い時間が経って新しい多情歌が生まれるなら、気の向くままに優しくても、気楽に多情を受け入れてもいいという話を聞きたい。

文学評論家