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ミスターアップル、人類史に「革新の種」を撒いて旅立つ

ミスターアップル、人類史に「革新の種」を撒いて旅立つ

Posted October. 07, 2011 03:06,   

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自ら立ち上げた会社、アップルコンピューターから1985年に追い出されたスティーブ・ジョブズ氏は、12年後の1997年、再びアップルに復帰した。そして、新しい広告キャンペーンを開始した。キャンペーンのタイトルは、「違う考え方を持ちなさい」(Think Different)。アルバート・アインシュタインやボブ・ディラン、マーティン・ルーサー・キングやジョン・レノン、トマス・エジソンやモハメド・アリ、マハトマ・ガンディー、パブロ・ピカソなどの顔が次々に登場し、ナレーションが流れる。

「ここに正気でない人たちがいます。社会不適者に不平ばかり言う者、問題児たちです。世間を違う目で見ている人たちなんです。人々が彼らに対し、正気ではないとささやく時、我々は彼らの中の天才性を見ます。正気でない人だけが、自ら世間を変えることができると信じ、それによって、世間が変わりますから」

ジョブズ氏の人生がまさにそうであった。人々は彼を正気ではないと思い、問題児とみなした。しかし、ジョブズ氏とアップルは、世の中を違う目で見た。人々がジョブズ氏とアップルは正気ではないと後ろ指を差した時、彼らは、天才的な製品を作り、世間を変えた。スティーブ・ジョブズ氏の56年間の人生、世の中が変わった。

●アップルの始まり

ジョブズ氏は1955年、未婚の母親から生まれ、その直後、里親に送られた。しかし、不幸ではなかった。誰かがジョブズ氏に、ポールとクララ・ジョブズ氏夫婦について触れながら、「里親」と表現すれば、ジョブズ氏は直ちに、「両親」と言葉を訂正した。よい家庭だった。そして、よい環境だった。そこは、ほかならぬシリコンバレーだったからだ。

ジョブズ氏の自宅から遠くないところには、米航空宇宙局(NASA)のエームス研究所があった。ジョブズ氏は幼い頃、そこで同じ年頃の少年らは目にできなかったコンピューターに接した。オレゴン州のリード大学に通ったが、1学期後に中退し、シリコンバレーに戻り、コンピューターに関心のあったエンジニアたちと付き合った。この集いであった人の一人が、ジョブズ氏より5歳年上のスティーブ・ウォズニアックだった。ウォズニアックは、アップルコンピューターの初ヒット作、「アップルII」を作った人だ。

1976年、ジョブズ氏は、ウォズニアックの新婚宅や自宅の車庫を事務所代わりにして、アップルコンピューターを立ち上げた。資本金は、ポケットマネーをはたいて工面したわずか1000ドル。ジョブズ氏には確信があった。ウォズニアックが作るコンピューターはまもなく、各家に1台ずつ、冷蔵庫や洗濯機のように売られるだろうし、その時になれば、世の中は変わるだろうという確信だった。

誰一人として、ジュブズの考えに同調しなかった。いや、正気ではないとも言われた。当時の基準から見れば、コンピューターとは、研究所や企業で真面目な仕事のために使われる高価な代物で、自宅における代物ではなかったから。しかし1977年、ジョブズ氏とウォズニアックが作った「アップルII」は、飛ぶように売れ、個人向けコンピューター(パソコン=PC)時代を切り開いた。

●失敗の連続

1984年、ジョブズ氏が作ったマッキントッシュは失敗の始まりだった。ジョブズ氏とアップルの従業員らがゼロックスのパロアルトリサーチセンター(PARC)が開発したマウスやグラフィックユーザーインターフェイス(GUI)をPCに適用したのは、革新的な出来事だった。それまでのコンピューターは、軒並み、キーボードで画面に命令語を打ち込む方式で作動させたが、マッキントッシュは、絵をマウスでクリックすれば作動した。未来のコンピューターだった。問題はこの技術を取り入れたマッキントッシュの価格が高すぎることだった。マッキントッシュは昨今のコンピューターの形を初めて提案したが、時代を余りにも先取りした。消費者は高価なマッキントッシュに顔を背け、ジョブズ氏はアップルから追い出された。

しかし、彼のやり方は確かに正しかった。当時、アップルのマッキントッシュ・コンピューター向けソフトウェアを製作・販売した小さなソフトウェアメーカー、マイクロソフト(MS)のビル・ゲイツは、この過程で学んだマッキントッシュソフトウェア技術を利用し、その後「ウィンド」運営体制(OS)を作り出す。

アップルから追い出されたジョブズ氏は、アップルへの仕返しのためネクスト(NeXT)というコンピューター会社を作った。素敵なデザインに優れた性能、先をリードするソフトウェアを使った完璧なコンピュータを作るのが目標だった。今度も、ジョブズ氏は市場を読み間違えた。ネクストは、マッキントッシュよりもさらに高かったが、ターゲットにしている消費者は大学生だった。売れるはずがなかった。

この時、ジョブズ氏は、1986年の映画「スターウォーズ」の監督として有名なジョージ・ルーカスから、コンピュータグラフィック会社を一つ買収する。ルーカスが、妻との離婚訴訟に負け、慰謝料の支払いに追われ、大急ぎで売りつけた会社だった。同社はその後、「ピクサー」と名前を変えた。「トイストーリー」が初めて商業的成功を収めた1995年まで、実に9年間、ピクサーは骨折り損のくたびれもうけのように、膨大な損害を受けた。

当時、ジョブズ氏と共にピクサーを立ち上げたエド・キャットムルは、ジョブズ氏の死亡のニュースを耳にし、「スティーブは、コンピューターでアニメを作るという正気でない考えを心底から信じ、我々にチャンスを与えた」と振り返った。

●ジョブズの復活

1997年、ジョブズ氏はアップルに戻ってくる。アップルは不渡り寸前まで追い込まれた状態だった。復帰したジョブズ氏が手がけたことは、何一つ、前向きな反応を得ることができなかった。復帰直後、ジョブズ氏が手がけた最大の仕事は、ライバル会社だったMSとの提携だった。ジュブズは、ゲイツを訪ね、MSに自由にアップルの特許を使わせる代わりに、投資を頼んだ。1997年、ジョブズ氏のキーノートで、MSとの提携事実が発表され、ジョブズ氏の後ろの巨大な画面にゲイツが登場すると、アップルのファンらは野次を飛ばした。

しかし、この時からジョブズ氏は正しかった。アップルはこの協力のおかげで、急場をしのぐことができ、立ち直りの足がかりを作った。

2001年に発表した携帯向け音楽プレーヤー「アイポッド」も、最初から失敗が囁かれた。携帯向け音楽プレーヤー市場は数十年間、ソニーの独壇場だったし、携帯向け音楽プレーヤーメーカー各社は、軒並み、該当分野だけに集中する専門メーカーだった。コンピューターを作ったアップルが、果たして携帯向け音楽プレーヤーを売ることができるだろうかという懸念だった。その結果は、皆ご存知の通り。アイポッドは世界で最も多く売れた携帯向け音楽プレーヤーとなった。

07年に披露した「アイフォーン」も失敗の予想が先に出た。携帯電話メーカーは消費者ではなく、通信社を相手に物を売るビジネスだった。通信会社とのネットワークも、営業ノウハウも無かったアップルには、製品を売る手が無いということだった。しかし、アイフォーンは世界で最も多く売れるスマートフォンとなった。アイフォーンに熱狂する消費者らは、通信会社に圧力をかけ、アイフォーンを販売させ、アイフォーンを販売できない通信会社は競争で遅れを取った。ジョブズ氏は市場の力学関係を変えてしまった。

2010年、「アイパッド」が出たときも、皆、口をそろえて、「サイズだけ大きくなったアイフォーン」だと酷評を飛ばした。しかし、そのおかげで、存在すらしなかった「タブレットPC市場」というのができ、アイパッドの人気のため、パソコン市場が揺らいだ。

ジョブズ氏は、アップルを自分の最も好きなバンド「ビートルズ」にたびたび例えた。「ビートルズは、4人がお互いに弱みを補い合うバンドですね。お互いにバランスが取れています。そして、この4人の合計は4より一際大きいのです。企業の偉大なところは、これは一人でできることではないということです。アップルは、チームプレーですね」。



sanhkim@donga.com