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感謝の方向性

Posted January. 01, 2020 07:53,   

Updated January. 01, 2020 07:53

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何人かの女性が障害者共同体を訪ねてきて、支援金の入った封筒を差し出してはコミュニティの代表的人物をじっと見つめていた。ありがとうという言葉を待っているようだった。ところがその代表は、しばらく何も言わずにいてから語った。「なぜじっとしているんですか?私にありがたいと言うべきじゃないんですか」。誰かに奉仕する機会を持つようになったことに感謝しなさいという意味だった。冗談で口にした言葉だったが、他者に仕えることと関連した深い意味合いが込められた言葉だった。

通常、感謝の気持ちは、助けを受ける者が助けを与える者に示すものであるが、その代表の考えは違った。傷と苦痛の中にいる人を助けることは当然のことだから、あえてお礼を聞くまでもない。誰かに何かを施しながら生きることができるなんて、どれほどありがたいことなのか。だから、方向を変えて、支援対象に向かって感謝すべきだという言葉だった。

その言葉を口した人は、ベルギーで神父の敍品を受けて、1年後の1959年に29歳で韓国に来て、韓国人のために献身し、2019年にこの世を去ったディディエ神父だった。池正煥(チ・ジョンファン)という名前でもっと知られている神父は、真なるもてなしは何なのかを、実践的な生活を通して示した人だった。彼を韓国に導いたのは、韓国人の貧困だった。韓国は戦争で荒廃になっていた。そこで彼は、自分が司牧するところを何とか豊かにしようと努めた。扶安(プアン)では干拓事業を手掛け、任実(イムシル)では韓国初のチーズを作って、貧しい田舎村を韓国チーズ産業の中心になるようにした。彼にとって信仰は実践だった。

そんな彼が、多発神経性硬化症にかかって車椅子に乗る障害者になると、今度は障害者に献身する人生を送った。彼は貧しい人々と障害者、彼の助けを必要とするすべての人に対して、いつも感謝していた。彼らがいたからこそ、奉仕する人生を生きることができた。彼が、後援金を持ってきた人たちに感謝の気持ちの方向性について考えるようにしたのは、そのためだった。哲学者たちが顔負けするほどの奥深い倫理的力説だった。