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寛容で平和な世の中を作ることができるのか

寛容で平和な世の中を作ることができるのか

Posted March. 12, 2024 08:50,   

Updated March. 12, 2024 08:50

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テルモピュライの戦いを描いた映画「300<スリーハンドレッド>」でペルシャの皇帝クセルクセスは、征服者であり侵略者である自分を「私は寛大だ」と表現する。歴史にクセルクセスがそんなことを言ったという記録はないが、クセルクセスの雰囲気をよく表している。彼は素晴らしい皇帝になるために非常に努力した。臣下を優遇し、皇帝の品格と権威を保ちながらも、口調や行動は尊大ではなかった。敵、特に降伏したり亡命したりした敵には心から寛大に接した。国政と軍隊には金を惜しまなかった。皇帝学の教科書があれば、優れた皇帝の言動はすべて実践しようとした。

皇帝にとって寛大さは特に重要な美徳だった。ペルシャは領土内に50以上の種族、部族が住んでいた。このような多様性を統治するには、多様性に対する寛容が必要不可欠だ。しかし、異なる文化、異なる価値観を理解することは可能なのだろうか。ペルシャ然り、ローマ然り、帝国内で起こっているすべての現象を理解することは不可能だ。理解と納得できる法と制度、常識だけを容認すれば、帝国は血なまぐさいものになるだろう。

しかし、皇帝には第二のジレンマがつきまとう。理解できない格差が寛容の政治条件という言葉自体が、寛容で世界を統治することは不可能であることを意味する。クセルクセスだけでなく、キルス、ダレイオス2世などペルシャの歴代皇帝は寛容を誇示する伝説的な逸話を見せたが、いずれも征服君主であり、大きな戦争を起こした。

帝国は戦争なしには存在できなかった。戦争で国論を集め、戦利品を分けて人心を得、敗者や裏切り者に寛容を示し、名声を得た。帝国を解体し、国民国家、民族国家が成立すれば、戦争を止めることができたのだろうか。帝国に代わって国連をつくってみたが、国連は寛容の呼びかけ人以上の役割を果たしていない。

人類は互いに寛容な共存する世界を望んでいるが、その方法をまだ見いだせていない。寛容を訴える方法では戦争を終わらせることもできない。だからといって努力をあきらめるわけにはいかないが、現在までに人類の知性が到達した地点はここまでだ。