秋は収穫のシーズンなので、ネズミの群れが暴れるが、猫が死んでいないので、手の施しようもなくやられてばかりいる。どこかの家で親猫が子を産んだという話を聞くと、詩人は焦った。猫の餌を買って、すぐにでも連れて来る態勢だ。「お迎えする」という一言に焦りがうかがえる。猫をもらってくる時は、その見返りに主に魚や塩を渡したようだ。ここでは、「魚を柳の枝に刺して行く」とあり、陸游は「塩を渡して猫を迎えた」という詩句をよく使った。博識な素養を基に精巧な詩語の選択を強調した詩人の厳粛主義の詩論とは違って、この詩は素材や表現が素朴で生気溌剌だ。友人の陳師道が「滑稽な手法でふざけるようだが、千年後も読者は斬新に思うだろう」と評価した理由もこのためだ。
詩に登場する猫は、飼い主とのんびり温もりを与えるペットの役割もするが、穀物を盗み、本をかじるネズミの群れを掃討する責任も重大だった。丁若鏞(チョン・ヤクヨン)は、「天は何のために君を地にやったのか。君にネズミを捕まえて民の苦痛なくすように言っただろう」(「猫の歌」)とし、陸游は「塩をお礼につつんで、小さな猫を迎え入れたところ、書斎をうずめる万巻の書をすべてネズミから守ってくれた」(「猫に贈る」)と書いた。猫にかける期待はこのように格別だった。
成均館(ソンギュングァン)大学名誉教授