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私の世界は水なのか、雲なのか

Posted April. 06, 2019 09:10,   

Updated April. 06, 2019 09:10

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「春」と言えば、思い浮かぶ人の中に、詩人・金億(キム・オク)がある。彼は現代詩の始まり、つまり季節にたとえるなら早春の頃に立っている詩人だ。金億が有名な理由は、彼が最初の翻訳詩集と最初の創作詩集を出版したからだ。「最初」なしでは、それ以降もないはず。金億の行跡について議論もあるが、彼抜きに韓国文学を語るのは容易ではない。

実際、詩人は特に春が好きだった。彼の詩の中で最も有名な作品である「春は行く」もそうであり、「春風」とか「来てから行く」もそうだし、知られている多くの詩が春の詩編だ。ところが、彼が春がとりわけ好きだったことには、それなりの理由があった。

金億は、詩は「歌」であるべきだと考えていた人だ。今、私たちの立場では、詩とは文字で書かれており、目で読むものだが、金億は自分の詩を詩というより、自分の歌だと呼んだ。もっと正確に言えば、歌の中でも特に「悲しくもきれいな」ものを追求した。まさにこの点で、金億と春は良い相棒になる。悲しい心情、きれいな景色、口ずさむ歌。この3つを合わせて置くのに、春ほどよく似合う時期はないからだ。

今日紹介する詩も、彼のスタイルをよく示している。ここでは、カゲロウのようなおぼろげさが、非常にきれいに表現されている。1920年代に平壌(ピョンヤン)に住んでいた友人であり小説家であった金東仁(キム・ドンイン)に送る作品だったという。神仙遊びをするように過度にリラックスしているように見えるが、その余裕を小憎らしく思うのはやめよう。春のように、春の余裕もただの刹那として過ぎていくだけだから。

文学評論家


李恩澤 nabi@donga.com