
「私たちが本当に知らなければならない三国遺事」/高雲基(コ・ウンギ)著
著者は、本の冒頭に掲載された「この地の始まり」を上のようにつづり始めた。金富軾(キム・ブシク)と一然(イルヨン)はほぼ同じ時代を生きたため、同じ文献資料を見ていただろう。資料で言うなら、朝廷の公式支援を受けていた金富軾の方が、もっと多様で貴重な資料を見ることができた。しかし、2人が歴史を見る観点はお互いに違っていた。金富軾は新羅(シルラ)、高句麗(コグリョ)、百済(ぺクチェ)の順に互いに違うストーリーを羅列したが、一然はその前に檀君神話を載せた。2冊を家にたとえれば、金富軾の三国史記は互いに無関係な小さい家を3軒建てたが、一番力の強い人が他の2軒を購入して大きく増やした格好だ。
しかし、一然の三国遺事は三つの柱の上に檀君神話という屋根を被らせ、初めから一つの有機的な家を建てた。そうしてこそ三国統一という話も可能だ。統一とは散らばっていたものを一つにまとめるという意味ではないか。何ら関係のない国、偶然韓半島の中に似たような時期に始まった国であったならば、合併という言葉がもっと正しい表現だ。我々が韓民族、単一民族だという考えは、檀君神話によって生まれ、現在われわれが南北統一を準備するのもまさにこのためだ。
遺事とは、「忘れられた事実」または「残された事実」という意味だ。金富軾がすでに王の命を受け、歴代伝承されてきた史料を集大成して正史の三国史記を編纂したので、もう一つの歴史を編纂する必要はなかった。しかし、一然はその本に満足しなかった。金富軾の目に入らなかった話が余りにも多い上、一然が見るにはその残された、または捨てられた話に三国時代の祖先の世界への認識が盛り込まれていた。だからこそ、三国以前の話を檀君神話か東明王神話のような神話の形で記録したのである。
一然が捜し出した遺事はどこにあっただろうか。彼が髪をそった陳田(チンジョン)寺をはじめ、僧科に合格した後に参禅した琵瑟(ピスル)山、吾魚(オオ)寺、インフン寺、入籍した麟角(インガク)寺などが全て三国遺事の現場だ。彼は70歳を越えた年に三国遺事を執筆したが、この執筆のために一生を通じて遺事を収拾した。三国遺事には、彼が探し回った寺の文献伝承と口碑伝承がよく引用されるが、このような資料は一然がいなかったら、そのまま消えたはずの、当代の歴史家の目には入らなかった残り物だった。
爲堂(ウィダン)・鄭寅普(チョン・インボ)先生は、開天節の歌の初めで、「我々が水なら泉があり、我々が木なら根がある」と言った。龍飛御天歌の初めのページに、「泉の深い水は日照りにやまず、花が咲き、夏をもたらし」と言ったように、我々が今の花と実りを楽めるようにしたくれた泉と根が檀君神話だという事実を知らせた人が一然だ。
大学時代、居酒屋で会った詩人の高雲基氏と写真作家のヤン・ジン氏が三国遺事の現場を探し回りながら20年間撮ってきた写真がこの本に載せられた。同じ時代を生きながら、我々が知らなかった遺事を彼らが探し出した。そのため本のタイトルも「私たちが本当に知らなければならない三国遺事」と付けた。この時代にふさわしく、DVD版もおまけでくれるこの2人を私は「この時代の一然」と呼びたい。