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ノーラン大尉の蛮勇

Posted April. 27, 2021 08:21,   

Updated April. 27, 2021 08:21

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1854年10月、クリミア半島のバラクラヴァ港にロシア大軍が進撃してきた。ロシア軍の相手は英国、フランス、オスマン連合軍だった。ロシア軍の攻撃を予想して、港で進入路の地形を利用して4つの砦に砲台を設置した。

 

ロシア軍は先に4つの砦を攻撃し、オスマン軍は砲弾がなくなるやいなや逃走した。砦間の支援もうまくいかず、4つの砦は十分に力も出せず、無惨にも陥落した。後方のスコットランド部隊は、勢いづいたロシア軍の騎兵の突撃をうまく阻止した。勝った勢いで、英国の重騎兵隊が突進した。数がはるかに多いロシアの騎兵が両サイドから英国の騎兵隊を包囲しようとした。英国の騎兵隊は怖気づくことなく突進し、ロシアの騎兵の中央部を突破した。すると、残りの英国の騎兵隊がロシア軍に向かって突撃した。士気が挫かれたロシアの騎兵隊は逃走してしまった。

 

騎兵が逃走したが、ロシアの本隊と砲兵、予備騎兵隊は堅固な隊列を形成していた。この時、英国軍第15軽騎兵隊が本隊に向かって進撃を開始した。ロシア砲兵が一斉に射撃し、騎兵隊は側面と正面から十字砲火を受けた。砲煙が消える前に英国軍の軽騎兵隊は亡き者となった。

英国軍の軽騎兵隊の無謀な突撃には、命令書の誤記、命令伝達方式のミスなどいくつかの問題があった。ここで見過ごせないのが正面突撃を主張したノーラン大尉の蛮勇だ。ノーラン大尉は最高の騎兵専門家で、訓練法と戦術に関する著書まであった。

しかし、ノーラン大尉は騎兵の能力と自身の戦術を過信した。平素はこのような自信と勇気は魅力的で献身的に見えた。しかし、実戦でノーラン大尉は戦闘を始めるやいなや、砲弾の生贄になり、仲間と部下を死に追いやった。戦争で誤った勇気と信念ほど恐ろしいものはない。

歴史学者