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テノールのカウフマンが伝える19世紀末の「オペラの黄金時代」

テノールのカウフマンが伝える19世紀末の「オペラの黄金時代」

Posted June. 02, 2015 07:21,   

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1880年代初頭、イタリアのオペラ界は危機意識に落ち込んでいました。国家的英雄だったジュゼッペ・ヴェルディが新作の発表を減らし、ジュール・マスネが代表となっていたフランス・オペラが次々と流れ込んできたため、19世紀半ばは90%だったオペラ劇場での自国作品の割合は、この時期は40%台へと下がりました。

特に、ヴェルディの所属事務所だった「カーサ・リコルディ」の危機意識は大きいものでした。ウェルディの後継者になる新しいオペラの英雄を打ち立てなければなりませんでした。ミラノ音楽院でアミルカレ・ポンキエッリの高弟として育成されていたジャコモ・プッチーニが目に付きました。1884年、プッチーニの初オペラ「ビリ」の初公演を見守っていた同社のジュリオ・リコルディ社長は首を立てに振り、プッチーニは彼の全面的な支持の下、「ラ・ボエ−ム」や「トスカ」、「蝶々夫人」などのオペラ興行史上の大作を書き下ろしていきます。

当時、フランス・オペラの輸入を主導したところは、カーサ・リコルディのライバル会社ソンゾーニョでした。「祖国の文化界を育成しない」という批判の目を感じた同社は1883年から、若いオペラ作曲家を育成するという趣旨で、「一幕のオペラ作曲コンテスト」を開催しました。1889年優勝作のマスカーニの「カバレリア・ルスティカーナ」は大成功を収め、マスカーニはその後、カーサ・リコルディをけん制するソンゾーニョの対抗馬の役割を果たすことになります。

このような興行競争の中で犠牲となった人物がいます。プッチーニの故郷ルッカの4年先輩の作曲家・アルフレッド・カタラーニです。彼は所属事務所がカーサ・リコルディに合併されたため、遅れてリコルディの陣営に飛び込みましたが、リコルディはプッチーニを興行させることだけに関心がありました。カタラーニは疎外感の中、39歳の若さで亡くなりましたが、「ラ・ワリー」という傑作を残しました。プッチーニともカタラーニとも親しかった指揮者のトスカニーニは、生涯、カタラーニをプッチーニより優れた作曲家とみなしました。

こんな19世紀末のイタリア・オペラ界のいきさつを紹介したのには理由があります。6日ソウルの芸術の殿堂で行われるテノール・ヨナス・カウフマンの初の来韓公演で、カウフマンとソプラノ洪惠敬(ホン・ヘギョン)は、上に紹介したヴェルディやマスネ、プッチーニ、マスカーニ、カタラーニの作品を歌います。二人の素晴らしい歌と共に、熱かりしオペラの黄金時代を感じられる場になればと思います。



gustav@donga.com