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二人のローマ教皇

Posted December. 25, 2019 07:33,   

Updated December. 25, 2019 07:33

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ほぼ全ての面で対照的な二人がいる。細かいところから正反対だ。一人は一人での食事を好み、もう一人はみんなと一緒に食事することを好む。一人はスメタナのピアノが好きで、もう一人はABBAの歌が好き。好みの違いだ。しかし、それが観念と認識の相違だとしたらもう少し真剣になるべきだ。一人は原則を重視する保守主義者で、他方は変化を重視する革新主義者。二人は互いを指して人気に迎合し事なかれ主義だと、あるいは時代の声に鈍い独善家だと追い詰める。フィクション的要素が加えられた映画「二人のローマ教皇」に出てくるベネディクト16世とフランシスコ教皇の話だ。

世の中はどっちの指導者を求めるのだろうか。2005年即位したベネディクト法王は、数年来の経験を踏まえ原理原則に忠実な自分よりも変化に対応できる柔軟な人が必要と考えた。だから2013年、辞任を表明し、改革的なベルゴリオ(フランシスコ教皇の本名)アルゼンチンの枢機卿が法王に就任、教会を導く道を開いた。司祭たちの性的不品行と不正、律法主義立場などで教会の権威は地に落ちた状態だったけれども、終身制である教皇の苦悩と決断がなかったら不可能なことだった。

しかし、フランシスコ法王は提案当初、自分は教皇になる資格などないと何度もお断りしたそうだ。特に、アルゼンチンのイエズス会首長として独裁政権に堂々と立ち向かうこともできず、無念な命の犠牲を引き止めることができなかったという罪悪感が彼の上に重くのしかかっていた。ベネディクト法王はそのような悔い改めと罪意識があるからこそ、さらに謙遜でかつ寛容な教皇になると考えた。映画に出てくる他の枢機卿の言葉のように指導者になりたいと思わない人こそ、指導者になる資格があるのかもしれない。教皇は、全ての面で自身と真逆の「敵」に権力を渡した。世俗的な政治界では想像すらできない。教えとして変化を重んじたイエスに対する信仰があるから可能な選択だ。メリークリスマス!

文学評論家・全北(チョンブク)大学教授


李恩澤 nabi@donga.com