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文禄・慶長の役で、明がタイの艦隊を借りて日本を打とうとした

文禄・慶長の役で、明がタイの艦隊を借りて日本を打とうとした

Posted September. 09, 2015 07:13,   

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文禄・慶長の役で、明がシャム(現在のタイ)の艦隊を借りて日本を打とうとしたいわゆる「借兵暹羅」戦略の転末に光を当てた論文があらわれた。

最近発刊された海洋文化専門のムック誌「海洋文化」(アジア・パシフィック海洋文化研究院発刊)第2集に掲載された鄭潔西・寧波大学教授の「16世紀末、文禄・慶長の役と全アジア国家の連動」によると、1592年9月に朝貢で北京に来ていたシャム王国(アユタヤ朝)の使節が、「シャムの軍隊を動員して倭国の巣窟を打とう」と明に提案した。

明の経略大臣・宋應昌が萬暦帝に報告し、萬暦帝が同意して具体的な実行について検討した。しかし、両広(広東と広西地域)総督の蕭彦が、「シャムの軍隊は明にむしろ脅威になり得る」と反対し、実現されなかった。

明に救援兵を要請するために北京に行った朝鮮の使節・鄭崑壽が、「借兵暹羅」戦略を朝鮮に報告した内容が実録にも簡略に記録されている。今回の論文は、明の朝廷の𨛗甫、両広総督の上疏文、当時書かれた書籍などを検討して執筆された。

鄭教授は論文で、「『借兵暹羅』戦略は、文禄・慶長の役が韓中日だけでなく周辺アジア諸国にも関係があったことを示す」とし、「琉球国(現在の沖縄)が明の情報収集に参加し、マカオの黒人奴隷と東南アジア、インドから来た兵士が明軍に編入され出兵した」と指摘した。

「海洋文化」第2集には、「1928年の東亜(トンア)日報『図書巡礼』を通じてみた植民地期の島と海、島の人(1)」(リュ・チャンホ仁荷大学韓国学研究所研究員)も掲載された。「図書巡礼」は、東亜日報が1928年6月22日〜9月12日に73回にわたって連載した記事だ。上海大韓民国臨時政府の国務院秘書として働いた東亜日報のソン・ジョンウク記者(1897〜1929)らが、古群山(コグンサン)群島、巨済島(コジェド)、巨文島(コムンド)などの島を現地取材した。今回の寄稿を皮切りに、シリーズの原文全体が3回にかけて紹介される予定だ。

リュ研究員は、「『図書巡礼』は、民俗と伝統文化が旧習ではなく、伝統研究を民族の主体性の強化方法として認識する転換を成した企画だ」とし、「民族の実力養成運動の成果と方向を推し測ろうとしたと分析される」と強調した。