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なぜ、「漁場管理ドラマ」に熱狂するのか

なぜ、「漁場管理ドラマ」に熱狂するのか

Posted December. 14, 2013 04:14,   

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画面の中の男が、片思いを寄せてきた女に宣言する。「僕は今、お前を振るのだよ。ばったり会ったら声をかけるな。長い時間が過ぎても、『あの時はそうだったね』と、思い出でもあるかのように、笑いながら、知り合いでもあるかのように振舞うな」。ほかの男を愛する女が、もどかしい表情で尋ねる。「私たち、友達でも駄目なの?」

最近、人気を集めているテレビドラマの一シーンだ。これからどうなるか、見なければ分からないが、この男が、女から完全に離れる可能性は薄いと見なければならない。男性らは、このような設定を、「漁場管理型ドラマ」だという。漁場管理型ドラマでは、女主人公はイケメンたちに取り囲まれている。その中の1人と恋するものの、ほかの男性には、関心というえさを分けてあげる。管理される男性は、彼女の周りを人工衛星のように回りながら、涙ぐましい献身を厭わない。この役割をこなす脇役の役者が、男性主人公より高い人気を享受する場合も、たびたびある。

「私たち、友達でも駄目なの?」という台詞のように、多くの女性が周りの関心や愛を集めて、何時も傍に置きたがっている。彼女らには、くまなく愛されるという安定感が何よりも重要なためだ。

ところが、21世紀の愛は、不安という砂漠の上に育つ。ジグムント・バウマンは、「リキッドラブ」で、現代の人間関係をこのように分析している。

「あなたは願い、また願わない。孤独なあなたは、関係を渇望するが、関係ができたあなたは、自由を渇望する。片方の足は関係に置き、別の足はその外に置く。そして、あなたは関係、絆、連帯を連結で代替する。希望する時は直ちに疎通し、希望しない時も直ちに不通できるネットワークにアクセスする」

我々がよく使う「ヒューマンネットワーク」という言葉も同様に、バウマンの指摘どおり、願わない時は、「直ちに切ることができる」という意味を盛り込んでいる。デジタル遊牧民社会では、安定的な関係は、解散という脅威を受けざるを得ない。愛する恋人に会っても、相手と向き合う時間は、意外と多くない。それぞれ自分のスマートフォンを覗いたり、映画やミュージカルを観覧する。向き合うことに慣れておらず、一歩進めば、恐れをなす人間の類型が大量生産されている。競争や不安に苛まれる女性らに、だから、最適の現実からの逃避所であり、魂の安息地は、「できるだけ多くの愛」だ。愛されながら、同時にそれを乗り越えるもう一つの献身的な愛を受けることを夢見る。映画やドラマを通じて、そのような愛を渇望し、熱狂し、消費する。不可能なことを知っているからこそ、余計に拘る。

だから、「漁場管理ドラマ」は、彼女らの過度な欲望や見栄だけではないだろう。彼らは、日々、強まっている現実の不安を、想像の慰めでも癒したかったのではないだろうか。