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景福宮資善堂の遺構、元の場所に戻る

Posted July. 13, 2013 08:13,   

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どんな運命がこれほど数奇だろうか。世子に仕えた輝かしい時代は、国を奪われ、消えてしまった。悲しみが止まる前、全身が解体され、大韓海峡を渡って、他郷に連れて行かれた。それでも足りず、地震や火災を経験し、体はドカンと崩れ…。80年ぶりにようやく祖国の土を踏んだが、隅の部屋の居候の扱い。そうしてまた約20年、いよいよ、自分の居場所を取り戻せる光が差しはじめている。

景福宮(キョンボクグン)の東宮「資善堂」の物語だ。日本植民地時代、景福宮の受難の歴史だった資善堂の遺構(過去の建築物の痕跡)を元の場所に戻す案が推進されている。ほぼ100年ぶりのことだ。取り戻した文化財に見合う地位を取り戻すべきだという意味から、文化財庁はもとより、文化財委員会や学界も前向きであり、資善堂遺構の元の居場所探し事業に、追い風が吹くものと見られる。

「情け深い気性を養う」という意味の資善堂は、元々世宗(セジョン)9年(1427年)、当時の世子だった文宗(朝鮮王朝の5代目の王)とその后の寝室として建設された。壬辰倭乱(文禄の役)の時、倭寇によって一度焼ける苦難に見舞われたが、興宣(フンソン)大院君が再び建設し、1915年、日本帝国が日本に持出した。

当時、朝鮮統治5周年を迎えて、朝鮮物産共進会を開いたが、景福宮のいたるところを取り崩し、その資材を民間に売りさばく蛮行を犯したのだ。このとき、日本人事業家の大倉喜八𩒐が、東宮部材を買い入れ、東京に持ち帰って組み立てなおした後、私設の美術館として使った。しかし、10年足らずの1923年、関東大震災が発生し、基壇(建築敷地に積んだ壇)や礎のみ残し、全てが焼け落ちた。

そのように、資善堂は忘れ去られるところだったが、牧園(モクウォン)大学・建築学科の金晶東(キム・ジョンドン)教授(65)が1993年、東京大倉ホテルの庭園で、その遺構を見つけ出した。長い交渉の末、大倉ホテルは、三星(サムスン)文化財団に寄贈する形で、1995年、遺構の石、288個を返還した。しかし、残念なことに1999年、資善堂を復元する当時、取り戻した遺構は、建築資材として使われなかった。火災や放置のため、あまりにも激しく傷んだためだ。結局、景福宮北側の隅の乾清宮(コンチョングン)の傍に、さびしげに置かれていた。

最近、これを元の場所に戻すことを巡り、議論が活発化している。取り戻しの立役者である金教授は、「東宮のように、建築物の遺構を取り戻した事例は、世界でも稀だ」とし、「復元された資善堂の周辺の移し、景福宮を訪れる国内外の間観客が、忘れられた歴史を学ぶ教育現場として作るべきだ」と主張した。

文化財庁も積極的に賛成している。朴英根(バク・ヨングン)文化財活用局長は、「資善堂は象徴性が高いだけに、基本的な復元の方向性には同意する」とし、「手続き上の問題が残っているが、前向きに検討する」と話した。残った課題は費用問題だ。専門家らによると、遺構の移転には1億ウォン弱かかるとみられる。しかし、文化財庁としては調達が容易ではない。文化財界の関係者は、「資善堂遺構の取り戻しに相当お金を出した三星文化財団が、再び乗り出せば、形の上でよいではないか」という意見を示した。