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陣営ではなく国民を代表する司法府

Posted December. 19, 2023 08:49,   

Updated December. 19, 2023 08:49

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梁承泰(ヤン・スンテ)元最高裁長官が就任した2011年9月から金命洙(キム・ミョンス)前最高裁長官が退任する今年9月まで、司法府を見守ってきた国民の多くは相当な疲労感を感じたはずだ。梁承泰元最高裁長官時代に浮上した司法行政権乱用事件は、立法、司法、行政の「三権分立」という民主主義の原則に疑問を投げかけた。「裁判遅延」が蔓延した金命洙体制下で国民は憲法が保障した「迅速に裁判を受ける権利」が侵害され、「遅れた正義は正義ではない」という法文まで色あせた。

何よりも12年間、大韓民国の司法府が、果たして国民を代表していたのかという問いに対する疑問が提起された。司法府が国民ではなく陣営を代表するという疑惑を買い、国民も真二つに割れた。進歩陣営では、梁承泰体制が保守政権と結託して司法行政権乱用事件を招いたと主張する。逆に保守陣営では金命洙長官が野党寄りのいわゆる「政治判事」を要職に配置し、野党関連者の裁判を次々と遅延させたと主張する。

民主主義の原理を考えると、厳密に言えば司法府は国民を直接代表するものではない。立法、司法、行政の中で唯一選出されていない権力であるからだ。大統領と国会議員は国民が選ぶが、最高裁長官は国会の同意を得て大統領が任命し、裁判長は最高裁長官が任命する。その理由から司法府は「国民を代表する必要はない」という言葉がもっともらしく聞こえたりするのだ。

それでも司法府は権利を侵害された国民の最後の拠り所であり、基本権を守る最後の砦だ。米連邦最高裁判事を判事(Judge)ではなく「Justice」と呼ぶ理由も、彼らが「正義(Justice)の化身」の役割を果たすよう国民が期待しているからだ。

司法府が国民を代弁しなければ、立法と行政がいくらうまく機能しても民主主義はたちまち崩壊してしまう。民主主義体制で司法府だけを国民が選出しないようにしたのは、裁判官には高度な専門性と道徳性が求められるからだ。選出された権力が専門性を発揮できなかったり、権力を乱用したりする例は世界各地で数多く見られる。むしろ選出されていない権力であるからこそ、司法府は専門性と道徳性をより備えなければならず、国民をより多く代表し代弁しなければならない。それが民主主義に対する司法府の逆説であり、国民が期待する社会的・歴史的責務だ。

8日、国会で承認された趙熙大(チョ・ヒデ)最高裁長官は、陣営を越えて12年間の疲労感を解決する適任者として期待を集めている。趙長官を「保守寄り」だとして検証しようとした野党議員さえ国会人事聴聞会では「清廉性と道徳性に深い印象を受けた」「非の打ちところがない」などと好意的に評価した。本会議の承認採決も反対が18票に過ぎないほど多くの野党議員が賛成票を投じた。

趙長官は就任演説で「過去の無慈悲な権力が国民を脅す時、司法府は国民を十分に守らなかった」とし、「平等の原則を謳いながらも実際には富裕層と貧困層を差別するような印象を与えた」とも述べた。法曹界では保守と進歩のどちらか一方だけを擁護しないという意志を表明したのではないかという分析も出た。趙長官が今の初心を貫き陣営ではなく国民を代表する司法府を作ってくれることを願う。