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安市城

Posted October. 02, 2018 08:41,   

Updated October. 02, 2018 08:41

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隋と唐が高句麗を侵攻した時、高句麗の防衛線は北側の新城(現在の中国遼寧省撫順付近)で南側の卑沙城(遼寧省大連)までだった。この中央に遼東省と建安城(現在の河南省開封)があった。

隋は遼東省を突破できなかったが、645年に唐軍は遼東省と白巖城を順に陥落し、高句麗の防衛線中央に突破口を開いた。

その後ろに安市城があった。安市城は3ヵ月間、唐軍の包囲に耐え、侵攻を挫折させた。安市城が陥落しても高句麗が滅びるわけではなかった。その後、続いた高句麗と唐の戦争史を見ても、安市城の次に鴨緑江と清川江、大同江の防衛がある。平壌城も最後の砦として包囲戦に耐える能力があった。

 

ただし、安市城付近の駐蹕山戦闘で高句麗の主力軍が敗北したため、平壌までの防衛線が疎かになったのだろう。安市城が陥落したなら、高句麗の被害はもっと大きかったことだろう。「安市城だけが落ちても、高句麗は滅びた」という言葉は、唐側の遺憾の言葉だ。この言葉が、安市城戦闘の重要性を下げるものではない。その反対だ。安市城は、逃走しても2次、3次防衛線があるという誘惑に耐えた。

遼東省と白巖城が陥落し、数十の城が防衛をあきらめて逃走したが、安市城はひるまなかった。この戦闘で唐の侵攻は挫折し、一城が唐の大軍を防ぐことができることを証明した。

ひるむことなく義務と責任を全うすること。これは、戦争史が与える最も感動的な実例の一つだ。今、韓国社会は、能力もない者が権利だけ享受しようとし、責任は負おうとしない風潮が蔓延している。安市城の教訓が遠い国のことのように感じられる理由だ。確かに、ずっと以前のことではある。

歴史学者