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写真と銃

Posted December. 07, 2022 08:55,   

Updated December. 07, 2022 08:55

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「人々の写真を撮ることは、彼らを侵害することだ」。スーザン・ソンタグの言葉だ。「彼らが見ることができないことを見て、彼らが決して持つことができない自分たちについての知識を持つことによって」侵害するということだ。すべての写真がそうだというのではなく、狩猟のように、ある対象をカメラに収める時に発生する非倫理性を指摘した言葉だ。

米国の写真家のイサ・レシュコは、ソンタグが言った写真の非倫理性に注目する。西洋では19世紀後半から猟師が自分たちの捕獲物を写真に残すことを楽しんだ。今もそうだ。トランプ前大統領が2016年、大統領候補だった時、彼の息子がジンバブエで狩猟で殺したヒョウ、ワニ、バイソンの横で撮った写真が公開された。さらに象の尾まで切り取っていた。楽しみで撃って殺しただけでは足りなかったのか、死んだ動物を持って笑いながら写真を撮るとは、あまりにも加虐的だった。銃で殺して写真を撮り、二度殺したわけだ。英語で「銃を撃つ」と「写真を撮る」は同じように「シュート(shoot)」だ。

レシュコは、シュートが写真を撮る行為を意味する時、そこに染みついている不気味さに注目する。彼自身も、動物が老いていく姿をカメラに収める前は、写真を撮ることをシュートと言った。そこに含まれる暴力性を意識できなかったのだ。だが、人間に捨てられ、虐待され放置された老いた動物の姿を写真に収めていくうちに、シュートがどれほど残酷で暴力的で人間中心的な言葉かを悟った。そして、その言葉を使わないようになった。だからといって世界は変わらないだろう。人々は写真を撮りながら銃を撃った時のようにシュートという言葉を使うだろう。それでも、重要なことは、レシュコが人間の暴力に無策のむき出しの生命に対する憐憫の情を、そうでもして表現したかったということだ。ジャック・デリダの言葉のように「他者の中でももっと他者」である動物たちの最後の姿を慎重に収めた彼の写真も感動的だが、思わず出る言葉であっても動物を侵害しないという心はもっと感動的だ。