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悲劇が起きた理由

Posted March. 02, 2021 08:16,   

Updated March. 02, 2021 08:16

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1919年3月1日、ソウルで行われたデモはすぐに全国に広まった。地方でも組織的なデモが全国的に広がった。デモの長期化に伴い、必然的に過激になり衝突が発生した。

日本の軍警がデモ隊に向けて発砲を始めた。4月まで行われたデモで発生した死傷者数は正確でない。日本側の統計は、死者400〜600人、負傷者900〜1400人程度と記録している。日本人軍警、民間人犠牲者も若干いた。

大韓民国の臨時政府が編纂した史料集によると、死者は約7500人、負傷者は約1万5000人だ。どちらが正しいかというよりは、どちらが真相に近いかが正確な質問だろう。臨時政府の統計は、国権を喪失した状況で、調査方法上の限界を認めざるを得ない。そのため、実際はもっと多いと見る見解もある。日本の統計は縮小報告が確実だが、どの程度縮小されたかを予測するのは難しい。臨時政府の統計が正しいか、多かったと仮定すれば、局地戦の犠牲者を上回る数値だ。1982年、英国とアルゼンチンが展開したフォークランド戦争でのアルゼンチン軍の被害は、戦死が649人、負傷が1038人、英国軍の被害は戦死が258人、負傷が444人だった。日本側の統計によっても、アルゼンチン軍の被害と似たような水準だ。

戦争を彷彿とさせる被害だったとすれば、韓国民衆としてはそれこそ素手と石、声で戦った戦争だったことになる。悔しくもあり、残念でもあり、粛然とすることもあるが、このように抵抗せざるをえず、悲劇が起きた理由は簡単だ。

デモに参加したとある女子生徒の経験談が残っている。電車に乗ってデモ現場に向かう彼女は、途中、事前取り締まりを行っていた日本の警察に逮捕され、鐘路(チョンノ)警察署に連行された。警察が尋ねた。「君は独立を望んでいるのか」「そうだ」「それならどうやって独立するのか。軍隊や軍艦はあるのか。君たちを助けてくれる友邦国があるのか」