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蔡萬植の自虐

Posted November. 17, 2021 09:15,   

Updated November. 17, 2021 09:15

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「濁流」で有名な小説家・蔡萬植(チェ・マンシク)が書いた「民族の罪人」は告白小説だ。世を去る6年前の44歳の時、すなわち短かった人生の末年に書いたもので、より真剣に読まれる告白小説と言えるだろうか。

日本による植民地時代末期の1943年、朝鮮総督府と総力連盟は、各分野の専門家朝鮮人約200人を集めて、米国と英国を糾弾し、戦争を称える講演をさせた。小説家だった話者も選ばれた。どうしようもなかった。命令を受け入れてこそ、「嫌われることなく、身が安全だということが分かるからだ」。いやでも自分の足で出てやったことだった。しかし、「シアル」思想家の咸錫憲(ハム・ソクホン)の表現どおり、独立は泥棒のように訪れ、経緯はどうであれ、日帝に協力したことは長らく話者を苦しめた。「一度肌に付いた対日協力の泥は、私の両足にはめられた不滅のゴム長靴だった」。

皮肉なことは、独立後、話者が甥に接する態度だ。中学3年生の20歳の甥が叔父の家で勉強しようと上京した。生徒らは悪質な親日派だった先生から授業を受けないとして同盟休学中だった。その先生は、日本による植民地時代には創氏改名をしなかった生徒を落第させ、生徒たちの後を追って朝鮮語を使うと殴り、独立になった今でも日本語で訓戒に明け暮れていた。甥は、子どもたちの集団行動は正しいと思いながらも、卒業と入学試験を口実に叔父の家に上京したのだ。話者の怒鳴り声がとどろいた。班長くらいの奴が「出て主導をすべきなのに、後ろにそっとさがるのか。だからお前は反逆行為をしたやつなんだ。そんなことでは絶対に駄目だ、もう死んでしまえ」

ところが、彼自身が甥のように行動していた。そのため、彼の怒鳴り声は、息子のように大事にする甥に対する教育であると同時に、自分に対する懺悔であり叱責でもあった。彼は自らを「民族の罪人」だと自虐した。逆説的にもその自虐が彼には救いだった。韓国文学史で過去をあれほど痛烈に懺悔し、深く思惟した作家がいるだろうか。