Go to contents

言葉の余白

Posted October. 11, 2021 07:24,   

Updated October. 11, 2021 07:24

한국어

「すべてを語らない」(チョン・ミン、パク・ドンウク共著「父の手紙」)

思い浮かんだ。この短い言葉が良い。昔のソンビたちが子供宛に書いた手紙に出てくる文章だ。言いたいことや心配事は山ほどだったに違いない。しかし、手紙の末尾はたいてい、言い切らない、だった。それは実に孤高で、おおらかである。私も実践しようと努めてみた。なかなかできるものではない。話をしていると、いつの間にか決着をつけようと必死になる軽薄さに閉じ込められる。

先日、ある演劇舞台公演の制作者と作品修正会議を行った。先はこうで、後はこうだから、こうしなければならないんじゃないか。彼の視点には一理があって、言うことも一つひとつが正しかった。言いたいことを全部話した。私は確かに納得したし同意した。ところが不思議だ。私の熱情は凍りついた。

先日のことだ。ある作家と修正会議をした。私の言うことは一言一句正しかった。頷いている様子だったので得意になってしまった。しまった。最後まで全部言ってしまった。余地がなかった。彼の表情はいつの間にか暗くなり、残された私はむなしかった。

言いたいことを言い切ったところで気持ちがすっきりするわけではない。少し残して、いい加減に立ち止まらなければならない。はっきりと物事の是非曲直を正そうとすると関係が悪くなり、共に生きづらくなる。演劇もそうだ。感情の表現を尽くしてしまえば観客が関われる余地がなくなる。適当なところで立ち止まってこそ、見応えがある。余韻と余白がなければ、美しいはずもない。

選挙シーズンだ。ますます興味深い展開になってきた。互いに躍起になって噛みついては傷つけ合う。すべてを言ってしまえば真実となり、言い残せば陰謀になる。崖っぷちでけりをつけなければならないものなのか。それで勝者が独り占めすることがいわゆる政治というものなら、51に入られず49になる誰かは、また何年かはよそ者扱いされるのだろうか。囲碁では、五目中手や六目中手が花咲くときに手を引く。結局、2眼を作れずに散る運命の花だからだ。すべてを語らなかった昔のソンビの懐は、すべてを書き尽くそうとしない。