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釜山松島海岸の人魚

Posted March. 27, 2020 08:08,   

Updated March. 27, 2020 08:08

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「4人の姉が海女でした。幼い頃から海に潜る母の姿を見て自然に学びました。10代後半からは海に潜りました。2月末に陸に出て、旧盆が過ぎて済州(チェジュ)に戻りました。陸地の海岸で海産物を採集して家族を養いました。3番目、4番目の姉は70代中盤と後半ですが、今も海に潜ります。姉のことを考えると、心が痛みます」

70歳のコさんは、大きな負い目があると言って震える声で話を続けた。姉の犠牲で自分が教育を受けることができたので、感謝を忘れることができないと話した。済州旧左邑(クジャウプ)出身のコさんは、警官になった後、40年余り釜山(プサン)で暮らした。退職後、済州の出向海女文化の伝承と福祉の向上のために努力してきた。コさんは、姉の海女漁の動きを追って、蔚山(ウルサン)の方魚津(バンオジン)、浦項(ポハン)の九龍浦(クリョンポ)、統営(トンヨン)、三千浦(サムチョンポ)などを転々とし、釜山の影島(ヨンド)海女文化展示館の開館に貢献した。

コさんの姉のように多くの済州の海女は1950~70年代、海に潜って家族の生計の責任を負った。主に10代後半から20代半ばの年齢だった。この時代、数千人の済州の海女が陸地の男性と結婚して陸に定着した。海女の出向漁は1910年以降、本格化した。済州の海域で日本の潜水器船の乱獲が続いて海産物が枯渇したことや、水産物の商品化による現金所得化と海上交通手段の発達などで、出向漁が増えた。動力船をつかったり、無動力船である帆船に乗って海に出る海女もいた。済州を出て、全羅南道(チョンラナムド)の薪智島(シンジド)を経て金塘島(キムダンド)、羅老島(ナロド)、突山島(トルサンド)、巨済島(コジェド)、加徳(カドクト)などの島を飛び石のようにして目的地に向かった。

筆者は、コさんと同郷の済州旧左邑出身の海女がいる釜山の松島(ソンド)海水浴場を訪れた。1913年に韓国で初めて開場した海水浴場だ。海水浴場と岩南(アムナム)公園と呼ばれる松島国家地質公園の間の小さな入り江で海女が談笑していた。オさん(80)は、済州旧左邑下道里(ハドリ)出身だ。出向で松島に定着したという。「子どもが4人います。以前は学校で親の職業を書いたじゃないですか。3番目の息子だけ母親の職業を海女と書き、他の3人は空欄にしていました。海女だと知られるのを嫌ったからです。80歳の老人が体を動かして金を稼げる職業が海女以外にありますか。水に入れば飛び回ります。あそこにいるホンさんは83歳なのに水の中では人魚になります」と話した。隣で潜水服を手入れしていたパクさん(80)は、17歳で素潜りを学び、海女歴が64年だという。

一時は100人余りの海女がいたが、今は5人が海に潜る。彼女たちは、約10年前から海産物を共に採集し、共同で販売して利益を分ける。「多く獲る人も少なく獲る人もいるだろう。問題はないのか」と尋ねた。「争わず同様に分ける今が幸せだ」と一番年下の海女のヤンさん(66)が笑った。数日後、再び松島海水浴場を訪れた。彼女たちは人魚となり、口笛を鳴らした。海は和やかに光り、人魚は休む間もなく海に潜った