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影の愛

Posted August. 22, 2018 09:54,   

Updated August. 22, 2018 09:54

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ギリシャ神話に出てくるナルシスは、水に映った自分の影と恋に落ちたが、自分の愛を返さない影に絶望して命を捨てる。フロイトにとって、ナルシス神話は人間心理の秘密を解く鍵だった。彼の言葉のように、自己愛や自己陶酔は私たちには少しずつはあるものかもしれない。

ところが、水に映った自分の影から自分でない他人を見た詩人がいた。燕巖・朴趾源(パク・ジウォン)がそうだった。燕巖の詩は、ナルシスの自己愛を一挙に解決する。「燕巖にて兄を考えながら」という4行詩の最後の2行はまさに絶唱である。「今日から兄に会いたければどこで会えるだろうか/頭巾をかぶり、道袍を着て小川に映った自分を見たい」。水に映った自分の影を見て、兄を懐かしむということだ。

その兄は誰だろうか。過去20年間、燕巖にとっては父親と同様だった7歳年上の兄だった。燕巖は、「亡くなった父を思い出すたびに/兄を見た」。顔とひげをはじめとする多くのものが、亡くなった父の姿に似ていたからだ。ところが、その兄が死亡した。燕巖が51歳の時だった。兄が死んでから、彼は父の姿をもう見ることができなくなった。この苦しい現実の前で彼は驚くべき代替物を見つけた。水に映った自分の影だった。そこから兄の姿を確認したのだ。彼が頭巾をかぶり、道袍を着たのは、兄が生前にいつもそのような姿だったからだ。自分の影から兄を見て、またその兄を通じて父を見る目、これより美しい懐かしさと哀悼の歌があるのだろうか。朝鮮後期の博学多識な実学者李德懋(イ・ドクム)が、この詩を読んで感動したのも無理はなかった。

ギリシャ神話に出てくるナルシスの影は、自己破滅的な自己陶酔の影だったが、小川に映った燕巖の影は、自分が愛した人を喚起する利他的懐かしさと哀悼の影だった。水に映った自分の影から自分でない他人の現存を確認するなんて!ナルシス神話が青ざめる瞬間だ。

文学評論家・全北(チョンブク)大学教授