Go to contents

新羅、城壁を築く際に「生贄」を捧げていた

新羅、城壁を築く際に「生贄」を捧げていた

Posted May. 17, 2017 08:41,   

Updated May. 17, 2017 08:44

한국어
5世紀、新羅人が城壁を築いた際、人を生贄(いけにえ)に捧げた形跡が、慶州月城(キョンジュ・ウォルソン)で初めて確認された。建築物を築く際に人を捧げたことを示す考古学の証拠が国内で初めて発見されたのだ。4、5世紀、麻立干時代、新羅人が積石木槨墳に殉葬を行い、同時に王宮の城壁にも人を生贄にして埋めたのだ。

16日、国立慶州文化財研究所によると、月城西側の城壁の西門跡付近の発掘現場で、2体の成人の人骨が発見された。これらは1.5メートルの高さに積み上げられた城壁の基礎部の上段に埋められていた。身長165.9センチの男性と推定される人骨は正面を向き、性別未詳の人骨(身長159.3センチ)は横に少し傾き、もう一人の方を向いていた。

発掘団がこれらを生贄と見る根拠は、腕と脚がきれいにまっすぐで曲がっていないうえ、城壁が進行する方向に人骨がきちんと置かれているという点だ。そのうえ、足もとに祭器と見える新羅時代の土器4点が発見された。中国の商の殷墟遺跡で確認された生贄の人骨の頭が切られていたのとは違って、月城の人骨には外傷がほとんどなかった。国立慶州文化財研究所学芸研究室のパク・ユンジョン室長は、「毒薬などで命を絶った後、埋葬したと見える」と指摘した。

人骨の下には、ゴザのように草で織造した形跡があり、顔と体から木の皮がいくつか発見された。特に、横に傾いた人骨の片方の肩が肋骨の上に少し上がっていて、包帯で固く締め付けたように見える。東亜(トンア)大学の金宰賢(キム・ジェヒョン)教授(古人骨専攻)は、「地面にゴザを敷き、遺体をその上に置いたようだ」とし、「薄い木の皮で寿衣のように全身を巻いた」と説明した。横に少し傾いた人骨の足首から皮の履物と見えるタンパク質の成分も検出された。

 

何よりも人骨が発見された城壁の位置が注目される。月城の人骨は西門跡付近から発見された。昔から城門は敵軍や病気といった災いが出入りする通路と認識され、祭儀が頻繁に行われた。百済時代、呪術用の男根の木簡も扶余(ブヨ)の羅城東門の付近から出土した。月城の人骨の場合、高さ10.5メートルの城壁の基礎部に埋められ、建築物の下段に埋める鎮壇具(悪い気運を防ぐための供養物)の役割をしたと見える。

2000年に国立慶州博物館境内の統一新羅時代の井戸から発見された10歳ほどの子供の人骨も一種の生贄の事例と推定される。当時、井戸からは様々な動物の骨や土器も出てきた。学界は、慶州博物館の場合、建物を建てる過程に関係なく井戸を廃棄し、法事を行ったと見ている。月城の人骨と比較すると祭儀の目的や性格が違う。

一方、今回の発掘では、干支(年度)が書かれた木簡が月城で初めて出土した。この木簡では、「丙午年」と墨書が確認されたが、これは、法興王13年(526年)あるいは真平王8年(586年)に該当する。もし、法興王13年であると確認されれば、城山山城で出土した木簡より早い三国時代の最古の木簡と記録されることになる。

さらに、ターバンを巻いてイラン系のソグディアナと見える6世紀代の土偶も発見された。掛陵(クェルン)の武人像と慶州龍江洞(ヨンガンドン)の古墳などで西域人に似た彫刻像が発見されたが、いずれも統一新羅時代の遺物だ。三国統一前にすでに新羅人が西域と交流していた証拠と見ることができる。



金相雲 sukim@donga.com