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亀州大捷

Posted March. 19, 2024 08:48,   

Updated March. 19, 2024 08:48

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1019年3月16日(陰暦2月1日)、現在の平安北道亀城(ピョンアンプクト・クソン)前の野原で、姜邯贊(カン・ガムチャン)率いる高麗(コリョ)軍と蕭排押が率いる契丹軍が衝突した。高麗軍にとっては最後の関門だった。この戦いに勝てば生きて故郷に帰ることができた。高麗軍の立場からすれば、必ず殲滅させなければならない戦いだった。そうすれば、この厄介な戦争を終わらせることができるのだ。高麗軍が負けたり、巨蘭軍が大きな犠牲を払わずに逃げたりすれば、巨蘭軍がまた侵攻してくるかもしれない。993年に始まった高麗・契丹戦争は30年近く続いていた。高麗、契丹の兵士の中には、父親の代を継いで参戦した兵士もかなり多かっただろう。父と子、父と夫を失った女性も数え切れないほど多かったはずだ。

亀州大捷(「大捷」は大勝利の意)は感激的な勝利だったが、この勝利でも防げない悲劇が無数にあった。捕虜となって高麗や契丹の地で暮らした人々もいた。賤民だった楊水尺(ヤン・スチョク)が契丹の子孫だという話もあるが、楊水尺もそうだが、契丹に連れて行かれた高麗人の話は歴史から忘れられたか、あるいは故意に無視されたために伝わっていない。高麗人であれ、契丹人であれ、捕虜になった後も20年、30年続いた戦争の中で、怒った住民から彼らが多大な迫害と弾圧を受けたことは想像に難くない。亀州大捷の知らせが契丹に伝わった時、契丹にいた高麗人はどんな目に遭ったのだろうか。

百姓は敵軍による被害だけでなく、飢餓、貧困、犯罪に苦しむ。戦後、自分を撃った敵の兵士と会って握手し、向こう側で戦った敵の指揮官と会って生涯の友人になる人もいるが、ほとんどの国民にとって、苦しみの記憶と怒りは世代を超えて100年経ってもなかなか消えない。

数千年の人類の歴史の中で、戦争が与える教訓は変わらない。私たちが強かったり、受けた攻撃以上の報復をする能力があれば、戦争は起こらない。この程度の能力を備えるには、平和時にも戦争に備えるための犠牲と経済的損失を覚悟しなければならない。事故が起きたからといって訓練を縮小し、騒がしいからといって軍隊を追い出し、戦争を挑発する恐れがあるからといって軍備を減らし、機動訓練を放棄すれば、それが戦争と100年の苦しみを招く。