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「個人に似てこそ良い国家」

Posted February. 21, 2024 08:32,   

Updated February. 21, 2024 08:32

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誰かにとって苦痛であることが、誰かにとっては喜びになることもある。悲しくて呆れることであるが、時にはそれが現実だ。ところが、いくら他人の苦痛だとしても、それがどうして自分の喜びになるだろうか。互いに対する反目と悪意にその原因がある。プラトンの「国家」を見れば、ソクラテスはそのような分裂的現実を反対方向に変えてこそ、まともな国家だと話す部分が出てくる。理想的な国家では、誰かの苦痛と涙は私の苦痛と涙であり、誰かの成功と失敗は私の成功と失敗だという。彼が国家にとって最も有害だと考えるのは、他人の苦痛さえも楽しみとして受け入れる分裂だ。その分裂が、感情の共有を妨げる。彼によると、国を一つにまとめることは、「可能な限り、すべての市民が喜びと苦痛を共有すること」だ。

ソクラテスは、「個人に似た国家」が良い国家だと考える。ある人が指を怪我したとしよう。そうなると、体全体が苦痛を感じる。指は体の有機的な一部であるため、体全体が苦痛を共に感じるのだ。これは苦痛だけでなく、喜びや楽しみなど他の感情でも同じだ。部分が感じる喜びや楽しさは、全体が感じる喜びや楽しさだ。

ソクラテスは国家を人間の体にたとえ、「立派に経営される」国家なら、指と体の関係のようにならなければならないと言う。体の一部分が経験することを体全体が有機的に感じるように、個人が感じる感情をすべての市民と国家が共有しなければならないという。それによると、「個別市民に良いことや悪いことが起きれば、個別市民を自分の一部と考え、全体として一緒に喜んだり悲しんだりする国が良い国」だ。国家も、人格体でなければならないという意味だ。ソクラテスが約2000年前に言った言葉だが、国家が個人の傷と苦痛を自分のものと考えなければならないという言葉は、依然として有効で大切だ。私たちは、ひどい不信と冷笑と憎悪の時代を生きているからなおさらそうだ。