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無欲のエゴイズム

Posted June. 24, 2022 09:14,   

Updated June. 24, 2022 09:14

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「詩仏」という別称を得るほど仏教に心酔した詩人は、晩年に終南山のふもとに設けた別荘で隠者の楽しみを満喫した。友人が一人もいなくても、水の流れを辿った水源池までの散歩、ふっくらと浮かぶ雲を見ることは詩人に無限の快感を与えた。正四品尚書右丞という高位職にいた詩人が貪った「楽しいこと」がこの程度なら、彼がそれを「一人だけ知っていた」としても、その無欲のエゴイズムを咎めることはできない。森の中の老人と談笑でもしようものなら家に帰ろうともしなかったというから、長安近郊のこの別荘で半分は官吏として半分は隠者として過ごすことを念願した詩人の気さくさがにじみ出る。

漢詩の中の終南山(または南山)に込められた2つの対照的なイメージ。陶淵明が「東の垣根の下で菊を採り、悠然とした気持ちで南の山を眺める」と詠ったその南山は悠々自適に過ごした隠遁生活の代名詞だ。その一方で、終南山は出世に対する強い執念を表してもいる。歴代皇帝の中で終南山の隠者を重用した事例は時々あるが、唐の盧蔵用はまさにこの「終南山隠居」戦略で武則天によって起用された。これに由来する故事成語が「終南捷径」、「成功への近道」という意味だ。志があるふりをして終南山に偽装隠居して官職を得ようとする偽善者を皮肉った言葉でも使われる。

成均館(ソンギュングァン)大名誉教授