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砥平里の戦場で得た教訓

Posted January. 25, 2022 08:24,   

Updated January. 25, 2022 08:24

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1951年1月28日、米軍第2師団第23連隊所属の1個小隊が、砥平里(チピョンリ)の南東にあるサングルトンネル付近を偵察するために出発した。翌日の2次偵察で、この小隊は中国人民義勇軍の襲撃を受け、高地に孤立する。米軍は死闘の末、辛うじて彼らを救出するが、この戦闘は蜂の巣をつつく格好になった。当時、米国は韓国戦争を放棄するか悩んでいた。1月13日のトルーマン大統領の声明でこの議論はなくなるが、そのためには戦闘の結果で証明しなければならなかった。マシュー・リッジウェイ将軍は、東部戦線の中国軍は脆弱と見て、北進を命じた。

まだ恐怖を振り払うことができなかった米第2師団は、及び腰で横城(フェンソン)の方向に進撃し、中国軍と遭遇した。この小さな戦闘は、翌日に連隊規模の戦闘に発展する。韓国戦争に参戦したばかりのフランス大隊が先鋒に立ち、第23連隊第3大隊が参加してサングル付近の高地を占領し、2日間、大軍の中国軍と激戦を繰り広げる。この戦闘で勝利した後、第23連隊は砥平里に進入し、2月13日から16日まで韓国戦争の状況を変える砥平里戦闘を繰り広げることになる。

先日2日間、サングル地域と砥平里の戦跡地を訪れた。偶然に踏査チームが、将軍、領官、副士官、兵士、従軍記者出身という驚く構成となった。生存勇士へのインタビューも行い、地図と戦闘記録を持って、CSI(科学捜査隊)のように塹壕跡、銃弾跡を探し、高地と稜線を歩いた。

2つの驚くべき事実を発見した。当時の戦闘の位置を探し、復元し、体験することができた。どこが待ち伏せ地点なのか、なぜ生き残った人がいて死んだ人がいるのか、どんな部隊が立派な部隊で、勝利する部隊なのか、現場が語ってくれた。2つ目は、理由のない結果はないということだった。奪われた高地は本来脆弱な所だった。突破された地点は、十分な備えができないためだった。臨機応変な指揮は、準備して備えた結果だった。世の真理もそうだ。人のせいにし集団のせいにする前に、社会の構造と世界の変化と時代の流れを読まなければならない。戦場で生き残った人や他人を助けた人は、皆それを実践した人たちだった。