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白雲洞川の水路を再び生かし、水と山が調和したソウル美を

白雲洞川の水路を再び生かし、水と山が調和したソウル美を

Posted June. 19, 2023 08:20,   

Updated June. 19, 2023 08:20

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山は堅固で水は流れる。まもなく梅雨が明けたら、風水地理上でソウルの西白虎である仁王山(インワンサン)岩壁の下の水声洞(スソンドン)は、その名のように今夏も渓谷の水が大量に流れるだろう。雲一つない真夏の真昼にも寒気が感じられる渓谷の上の狭い岩の隙間からは、誰かが場所を占めて本を開くだろう。渓谷の下側では、歩き始めたばかりの赤ちゃんがかわいい足の裏で膝までくる水を蹴りながら、生涯初の水遊びをするだろうし、少し年上の子供たちは、おたまじゃくしを追いかけて半ズボンが濡れるのに気づかないだろう。記者は幸運にも、この町で幼い子供たちと何年も暮らした。

謙斎・旌善(キョジェ、チョン・ソン=1676~1759)が、仁王山の南麓から白岳(ペクアク)渓谷に至る壯洞(チャンドン)一帯の優れた風景を描いた壯洞八景帖にも水声洞が出てくる。この絵には、小さな石橋(キリン橋)を渡ったばかりのソンビたちと童子の姿が描かれている。橋は1960年代、オクインモデルマンションの建設当時に壊れてなくなったと知られたが、2009年頃突然再び「発見された」。実は、キリン橋には何事もなかった。長い間そのままその場にいた。ただ忘れただけだった。

関心がなくなればあるものも見えないので、ないも同然だ。ソウルに近代に入って忘れられた代表的なものが「水の記憶」だ。外国人がソウルの山を見て驚くといわれるが、水は山と共に、漢陽(ハンヤン)が都に決まった最大の理由だった。朝鮮時代の漢陽地図を見ると、水路がクモの巣のように都城の中を通る。小さな橋も数えきれないほど多かったはずだ。生活河川だったので、渓谷から遠ざかるほどあまりきれいではなかっただろうが、堤防には花が咲いただろうし、可愛らしい橋を渡る風情があふれたはずだ。大きな水(漢江)は大きすぎて忘れられなかったが、もう小さな水(小川)はほとんど忘れられた。

壯洞八景帖には、白雲洞(ペクウンドン)の絵も含まれている。清渓川(チョンゲチョン)の発源地の中で最も長いと知られている白雲洞川は、景福宮(キョンボクグン)を包み込みながら流れるため、都城風水の得水処に挙げられる。水声洞の渓谷の水も白雲洞川と合流し、清渓川に流れ込む。しかし、白雲洞川は、日本帝国による植民地時代だった1925年に覆蓋され、今は記憶する人はあまりいない。日本帝国が、町の名前である清風渓(チョンプンゲ)に白雲洞を加えてつけた青雲洞(チョンウンドン)という名前に跡が残っているだけだ。

白雲洞川が始まるところであり、大同団総裁の東農・金嘉鎭(キム・ガジン=1846~1922)が暮らしながら活動した旧白雲荘の敷地が売却される状況だというニュースを最近聞いた。時間をかけて訪ねてみると、野いちごがいたるところにあった。仁王山と北岳山(プクアクサン)に登れる道だが、私有地であるためかあまり訪れる人がいない。

ソウルの小川は、白雲洞川のように近代に入って、たいてい覆蓋されて道路になった。誰の土地でもなかったため、買い付けが容易だったためだ。そのように作った道路を通じて、ソウルが発展したのだから、それも間違っていると言えることではない。ただ、もう忘れたことを振り返り、他の都市を想像する時になった。ソウル市は、中学川(チュンハクチョン、三淸洞川)とともに、白雲洞川の水路を蘇らせる方法を探しているという。実現すれば、今の清渓川に自然河川としての価値を一部でも加えることができるだろう。白雲洞川の発源地を白雲荘の歴史と連係させ、生態・歴史公園にしようという意見も出ている。水と山が調和した本当のソウルの醍醐味を感じたい。