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無理矢理詩を作る

Posted April. 14, 2023 08:24,   

Updated April. 14, 2023 08:24

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春の日、川辺の東屋に出て日差しの中を転がる詩人。川の水は忙しく流れるが、私の心は悠々と空に浮かぶ雲のようにゆったりとしている。春が深まり、草木は一層生い茂り、万物はまさに豊かさを謳歌する。しかし、じっと暮れていく春の日を眺める詩人は、「万物が自分一人で活気に満ちた」ことに全く不満だ。屈曲した人生の突破口が、なかなか見えないからだ。たとえ今は知人の助けを借りて辛うじて藁ぶきの屋を設け、家族が集まって暮らしているが、これは決して私の人生が究極的に目指すものではないのではないか。「私のいつか、あの頂上に登って、山がどれほど小さいかを一度眺めてみたい」(「泰山を眺めながら」)と言った浩然の気に比べれば、現実はなぜこのようにみすぼらしく絶望的なのか。数年が経っても、安史の乱は終わる気配さえなく、貧しさに疲れた放浪生活も終わりが見えない。流れる川のように、前を向いて走る気がないということは、無欲の達観ではなく無気力なあきらめだ。雲のようにゆっくりと留まっているということは、世の荒波に苦しめられた傷痕に疲れたことを自認したものだ。

このように見れば、「生き生きとした活気に満ちた万物」は、結局詩人と世の中の間の矛盾であり葛藤だ。何をもって痛みを癒すのか。それでも詩が唯一の慰めだろうが、詩人にとって詩は悠々自適からすらすら流れ出る歌では決してない。「憂いを忘れよう」と整えて、「無理矢理作り出したもの」にならざるを得ない。