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タイトルの魔法

Posted April. 05, 2023 08:49,   

Updated April. 05, 2023 08:49

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タイトルによって意味が決まることもある。リウム美術館で展示中のイタリアのアーティスト、マウリツィオ・カテランの作品がそうだ。中でも特に「Mother」と「Father」という作品がそうだ。

一つは砂に埋もれた人が両手だけを出して合掌する写真で、「Mother」というタイトルが付けられている。これは、カテランが1999年のヴェネツィア・ビエンナーレで行ったパフォーマンスアートを撮影したもの。カテランはインドのイスラム教スーフィーの修道僧を招き、砂の中に入って2時間、手だけを出して祈る苦行をさせた。それは母とは関係のないスーフィー教徒の修行だが、カテランはそこに「Mother」というタイトルをつけた。もう一つは、横になっている人の足の裏だけが見える作品で、「Father」というタイトルが付けられている。土のついた足の裏は父親ではなく自分のものだが、カテランはそこに「Father」というタイトルをつけた。

私たちはタイトルに合わせて作品を解釈する。タイトルに支配されると言えようか。タイトルがなければ、これらの作品を見て母親や父親を思い浮かべることは容易ではない。カテランはタイトルをつけて手と足を見せ、「観客に自分の物語を作り出すことを強要する」。意味を生成させることで、ある種のポストモダンの遊戯をするということだ。しかし、いくら遊戯とはいえ、カテランはそのようなタイトルをつけながら、自分の母親と父親を思い浮かべたのかもしれない。カテランが22歳の時に亡くなった母親はメイドで、父親はトラック運転手だった。だから、一つは信仰心の深いカトリック信者だった母親への哀悼の作品であり、もう一つは、過酷な労働で生きなければならなかった父親への哀悼の作品かもしれない。そうすると、遊戯と真摯さが混在していることになる。

それは個人的な次元にとどまらない。遊戯的な作品が私たちを涙させる。土のついた足裏が暗示し、喚起させる母と父の苦しい人生を振り返り、写真の中の手のように彼らのために祈りたい。タイトルがもたらす魔法だ。