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悲嘆の中の悲嘆

Posted February. 15, 2023 08:50,   

Updated February. 15, 2023 08:50

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悲しみをもって悲しみが癒される時がある。悲しい時に悲しい歌や話を探し求める理由だ。マイケル・フレームという数学者が、著書「数学の慰め」で悲しみを扱う方法には不思議に人を慰める部分がある。

悲しみは、韓国語では多様な悲しみを総称する言葉だが、フレーム氏は、それを悲嘆(grief)と悲しみ(sadness)に分ける。母親が亡くなった時に感じる悲しみは悲嘆であり、感情的重みが伴わない軽いものは悲しみだ。氏の関心は悲嘆にある。いつかフレーム氏は、ある学生から重力という主題について文を書いてほしいという要請を受けてこのように書いた。「重力は空から雨を降らせます。雪片も。秋には落ち葉も。そして、あなたが本当に消えたことを知った時、私の目から涙も流れ落ちるようにしました」。喪失によって息が苦しくなり、10年が経っても依然として涙が流れ、胸が痛む状態、まさにこれが彼の言う悲嘆だ。悲嘆は、非常に深い愛を前提とするという。

それなら悲嘆から回復する道はあるだろうか。フレーム氏が思うにはないという。母は死んだままでいるだろう。悲嘆の中には、似たようなタイプの「より小さな悲嘆」がある。幾何学でいう「自己類似性」の原理というか。例えば、母の声を聞くことも、ご飯を一緒に食べることも、抱きしめたり抱きしめられたりすることもできない。人生は母がいた時といない時に分かれて「再調整」されなければならないだろう。母の不在を中心に、すべてのことを修正しなければならないという意味だ。

では、人生はどのように再調整されるのだろうか。わからない。喪失と悲嘆は、一人で心の中で耐えることだから。愛が「最も個人的な経験」であるのだから、悲嘆も個人的な経験にならざるを得ないのではないか。生半可な労いの言葉が、悲嘆に暮れた人に通じない理由だ。ただ、その人の話を聞いあげ、待ってあげるしかない。いつか悲嘆のエネルギーの一部が外に投影され、世の中を新しく見る扉を開くこともできるから。