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仙甘島の子供たち

Posted January. 11, 2023 08:42,   

Updated January. 11, 2023 08:42

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発生当時はトラウマではないが、脈絡を理解するとトラウマになる事件がある。井原宏光氏の「あゝ仙甘島(ソンガムド)」は、そのようなトラウマの倫理性に関するありがたい小説だ。

安山(アンサン)にある仙甘島が背景となっている。1942年から1945年まで仙甘学院がそこにあった。当時は島だった。朝鮮総督府は、数百人に達する浮浪児を皇国臣民に育てるとしてそこに収容した。子供たちは教官を父親と呼んだ。教官の中には、昌氏改名した朝鮮人もいた。地獄のようなところだった。一部の子供たちはその生活に耐えられず、海を泳いで逃げようとして溺れ死にした。捕まった子供たちは、教官に殴られて瀕死状態になった。死んだら、人間ではなく番号が死んだ。子供たちは、名前ではなく上着についた番号で呼ばれた。

作家は、そのような悲劇を小説の形で証言する。井原氏は仙甘学院の副院長の息子で、7歳から10歳までそこに住んでいた。母と姉、二人の妹までそこに住んでいた。戦争が終わると、家族は日本に戻り、彼らのうち誰も仙甘も話を口にしなかった。しかし、井原氏は忘れられなかった。あの時目にした子供たちの悲惨な姿と事件が、しきりに頭に浮かんだ。当時は幼くて知らなかった大日本帝国の蛮行を知り、その記憶はトラウマになった。

仙甘学園の悲劇を世間に知らせることは強迫観念になった。50回以上仙甘島を訪れ、それを暴き始めた。1989年に出版した「あゝ仙甘島」がその結実だ。その小説が出て初めて、仙甘学園の悲劇が世の中に知らされるようになった。ところが、あっけなく仙甘学園は光復(クァンボク=日本植民地からの独立)後も閉鎖されず、1982年まで孤児たちを収容する施設として利用された。

仙甘学園の犠牲者たちは、ガヤトリ・スピヴァク氏の言葉では、「自らのために語れない下位者たち」だった。下位者の中でも下位者であるかわいそうな子供たちを代弁したのは、韓国人ではなく日本人だった。他者に向けた彼の温かい心がまぶしい。