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勇敢な失敗に喝采を

Posted December. 13, 2022 08:54,   

Updated December. 13, 2022 08:54

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1942年6月4日午前8時頃、ミッドウェイ近郊の太平洋上空で、上官と部下の間で口論が繰り広げられた。米空母ホーネットで出撃した米軍攻撃機編隊の指揮官スタンホープ・リング中佐に対して、配下の第8雷撃機大隊長ジョン・ウォルドロン少佐が抗議した。当時、米航空機は、日本の空母を探していたが、ウォルドロン少佐は、方向が間違っていると主張した。リング中佐は聞かなかった。憤ったウォルドロン少佐は、大隊を率いて離脱し、自分が考える場所に向かった。これは明らかな抗命であり軍法会議にかけられる事案だった。

しかし、ウォルドロン少佐は法廷に立たされることはなかった。彼が主張した方向が正しかった。ウォルドロン少佐の編隊は、日本の空母戦団を発見し、すぐに攻撃した。米軍の雷撃機「TBD」は、すぐにも戦場から退出されそうな老朽モデルだった。米軍の魚雷性能はさらにひどかった。

戦闘機の掩護もない状態で、ウォルドロン少佐の雷撃機は一丸となってまっすぐに亢進した。日本軍の戦闘機が彼らを攻撃した。攻撃可能距離まで近づき、日本の空母に魚雷を発射した米軍機体はたった1機で、それも外れた。米軍の生存者は一人だけだった。米軍パイロットの実力は初心者レベルだった。

普通、戦史ではこの程度のことが記録される。ところが、第8雷撃大隊出身の証言によると、彼らも戦争前に努力し、訓練に訓練を重ねた。インディアンの混血だったのでニックネームが酋長だったウォルドロン少佐は、時々自分の家でパーティーまで開き、若い新兵を叱り、励まし、彼らを戦士として育てるために渾身の努力を尽くした。6月4日のあの日、彼らが未熟だったのは準備する時間の不足だった。努力が足りなかったためではなかった。

一発の魚雷も当たらなかったが、彼らは一人しか生き残らなくとも最後まで進むという覚悟で死の亢進をした。彼らの失敗と未熟さは心痛なことであって嘲笑することではない。ウォルドロン少佐の編隊はミッドウェイ海戦の最高の功労者だと言う戦史家もいる。彼らが日本の艦隊を見つけ、これが戦闘の方向を決めたからだ。