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日光の権利

Posted June. 01, 2022 07:32,   

Updated June. 01, 2022 07:35

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神の怒りを買って死ななければならない人がいる。彼が死を避ける唯一の道は、誰かが彼の代わりに死ぬことだ。エウリピデスの悲劇「アルケスティス」で、ある人が直面した実在的状況だ。誰も彼のために死のうとしない。すると、彼の妻が代わりに死ぬ。

彼は妻(アルケスティス)が死ぬと、自分を慰めるために訪ねてきた父親に暴言を吐く。「生きるだけ生きていれば、息子のために死んでくれればいいのに、嫁を死なせたのか」と恨んだのだ。産んで育ててあげて財産と地位まで譲ったのに、今は死んでくれなかったと愚痴をこぼすなんて。父はあきれる。しかし、これは息子だけの考えではない。死んだ嫁も、死ぬ前に夫の両親のせいにした。彼女は舅姑について、「死んでもいい年になったので、息子を救い、名誉に死ねば良かっただろう」と話した。舅姑を恨んで死んだのだ。皆にとって、老人は必要に応じて死んでもいいし、捨ててもいい余剰的存在だ。

親孝行を重視する儒教文化圏では、想像しがたい話だ。私たちには、親のために犠牲になる親孝行の話は多くても、親に自分の代わりに死んでほしいという子供の話はほとんどない。文化がそのような物語を容認しないからだ。それなら、エウリピデスの悲劇は、私たちと何の関係もないのだろうか。そうなればいいが、老人を余剰的存在と考えるのは、彼らだけの問題ではないかもしれない。私たちにも老人を余剰、すなわち捨ててもいい存在と考える心が少しあるかもしれない。「君は日光を眺めることを楽しんでいる。それならお前の父はそうではないと思うか?」。父親のこの追及から、私たちはどれほど自由だろうか。老人たちが捨てられるのが現実だ。実際でなければ、心理的に捨てられる。顔色をうかがって生きていく老人たち。エウリピデスの悲劇に出てくる息子と父親は、まさに私たちの姿かもしれない。その父親の言葉のように、年を取ったからといって日差しを楽しむ権利が少なくなるわけではない。