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高句麗の無残な5月

Posted May. 17, 2022 08:53,   

Updated May. 17, 2022 08:53

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645年旧暦3月、唐の太宗は、自ら大軍を率いて遼東に到着した。宿願だった高句麗侵攻のためだった。初めは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。隋が4回侵攻する間、一度も陥落したことのない遼東城が一度の攻撃で落ちた。蓋牟(ケモ)城や白巖(ペクアム)城が陥落し、高句麗の第一線の防御線を突破し、第2次防御線である鴨緑江(アプロクガン)まで攻め込む勢いだった。この時が5、6月頃だった。慌てた高句麗は、第1線で唐軍を撃退するために大軍を送り出したが、駐蹕山(チュピルサン)の戦いでつい大敗してしまった。しかし、最後に残った砦である安市城(アンシソン)が降伏を拒否し、最後まで戦った。旧暦7月に始まった攻撃は、3ヵ月に渡ったが、安市城は陥落しなかった。その間に、唐軍が計画していた侵攻の時間はすべて消耗してしまった。いくら強大国でも、このような全面戦争を無制限に続けることはできない。太宗は撤退せざるを得なかった。

少年時代から参戦し、生涯、華やかな勝利と名声を築いた太宗にとって、高句麗遠征の失敗は恥辱極まりないことだった。敗北を認められなかった彼は、2年後に全面侵攻から消耗戦争に戦略を変える。遠征軍の規模を減らし、高句麗の防御線の全面的に攻撃する代わりに、特定地域だけを攻略しては引く方法で苦しめた。そのように高句麗の体力を消耗させた後、649年5月に再び大々的な第2次侵攻を準備していたが、突然死亡した。

死ぬ直前に、太宗は高句麗への侵攻を中止せよという教書を下したが、唐は戦争を続けた。その結果、668年に高句麗は滅亡してしまったが、過度な戦争と過度に育成した軍閥のせいで、唐も内戦で弱体化した。

プーチン大統領は党太宗ほど名将でもなく、直接第一線に出ることもなかった。にもかかわらず、ふとウクライナ戦争が連想される理由は何だろうか。無謀な戦争、独裁者の野望による戦争は皆を破滅させる。6月になれば、ロシア社会も体感苦痛が大きくなるだろう。プーチン大統領が戦争を放棄したとしても、世界は少なくとも来年まで深刻な食糧と経済問題で苦難の時期を迎えることになるだろう。戦争は皆を犠牲にする。利己的な独裁者もその中に含まれる。6月は誰にとって、最も惨酷な1ヵ月になるだろうか。