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悲しみの山

Posted April. 20, 2022 08:20,   

Updated April. 20, 2022 08:20

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人は時折、神話の力を借りて生きていくことを耐えられるようにする。神話が存在する理由の一つだ。

 

昔、ある山奥に村があった。皆がひどく貧しかった。いくら働いても、飢えを凌ぐことはできなかった。そのためか、いつからか風変りな風習が生まれた。70歳になると山の中に捨てられたのだ。人々が直面した窮乏の現実により、老人は捨ててもかまわない、持て余された存在だった。

それでも抵抗がなかったわけではない。ある息子は、山に行っても母親を置き去りにすることはできないと泣き、母親はそんな息子の頬を殴り、道理に従うよう諭す。互いに辛いことだ。息子は涙を流し、母親は心の中で泣く。最終的に、息子は母親を置き去りにする。フロイトの言う現実原則が勝ったのだ。家に帰ると、妻が母親の服を着ている。捨てられた者がいる一方、残った者は生き続ける。捨てられた者の服を着、捨てられた者の分を食べて。

 

今村昌平監督の映画で有名な、深沢七郎の小説『楢山節考』に出てくる話だ。雲をつかむような話のようだが、法が及ばない貧しい村では、実際にそのようなことがあったのかもしれない。韓国の説話にもそのような話はある。凶年で、生存が脅かされる実存的状況では、なおさらそうしたかもしれない。問題は、心理的衝撃であり傷だ。それを放置することはできなかった。それゆえ、老人が楢山に行けば山の神に会って天国に行くという神話が作られたのかもしれない。そのような幻想でもあってこそ、捨てられる親も、親を捨てる子も生き別れによる傷を癒すことができたのだろう。

「野蛮行為の記録とならない文明の記録などない」というヴァルター・ベンヤミンの言葉通り、野蛮な時代だった。ならば今はそれほど野蛮ではないのだろうか。貧しい老人は、もはや持て余された存在ではないのだろうか。老人が捨てられた悲しみの山は形が違うだけでどこかに依然として存在するのではないだろうか。神話すらも失って。