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去る春を引き止める

Posted April. 15, 2022 08:02,   

Updated April. 15, 2022 08:02

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自然の春も人生の春も、「青春」と同じ名前を使う。青春は生気と生命力と無限の可能性に支えられ、いつも初々しくて尊い。過ぎ去る春を惜しんで、「花が咲いたら一緒に笑って、花が散れば一緒に泣いて」(「春の日は行く」)と歌った心情は、そのため古今東西が違わない。散ってしまったのかと思っていた花びらが奇跡のように再び開花したのか、それとも春を行かせない詩人の切実さのおかげなのか、大詰めを迎えていた春の花が再び咲き、遠く離れたツバメたちが訪れ、活気を与える。これに加え、子規(ホトトギス)さえ春風を吹き返すことができると自信を持って、夜を徹して泣き叫ぶ。春を捕らえようとする身振りがこのように忙しいため、詩人の執念も強い。春風を呼び戻すことができると確信する。

子規は、トゥトギスや摺動鳥、鬼触道、不如帰など様々な別称があり、しばしば悲運の象徴として登場するが、亡国の恨みを抱いた蜀王・杜宇の化身という伝説のためだ。金素月(キム・ソウォル)の「あまりにも悲しく/嫉妬で体が死んだ姉は/死んで摺動鳥になりました」(「摺動鳥」)と、「泣いて血を吐いて吐いた血も飲み込んで/一生を恨みと悲しみに疲れた小鳥」(金永郎の「トゥトギス」)も、そのようなイメージに触れている。しかし、詩人にとって、子規の泣き声は、このような絶叫とは全く違う。それは絶望的な悲嘆ではなく、過ぎ去る青春を引き締めようとする意志であり、誓いのようなものだ。3月、まだ真っ最中の春が過ぎ去ることに、早くから傷つけないという詩人の送春の思いは意地ではないだろう。

成均館(ソンギュングァン)大学名誉教授