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行政過剰と晋州城の悲劇

Posted February. 22, 2022 08:55,   

Updated February. 22, 2022 08:55

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「湖南がなければ、国もない。」李舜臣(イ・スンシン)将軍が残した有名な言葉だ。文禄・慶長の役の時、朝鮮が最後まで持ちこたえることができた決定的要因が、湖南を守ったことだった。よく文禄・慶長の役の3大大勝として閑山島(ハンサンド)海戦、晋州城(チンジュソン)、幸州山城(ヘンジュサンソン)の戦いが挙げられるが、幸州山城の戦いの立役者である権慄(クォン・ユル)は幸州山城の戦いより、梨峙(イチ)戦闘の意味がより大きいと語った。幸州山城の戦いを梨峙戦闘に代えれば、3大大勝全てが倭軍の湖南侵攻を阻止した戦闘だ。

倭軍が湖南に侵攻することは、朝鮮政府も十分に予測していたことだ。政府は、陸上に防衛拠点を一つつくる。まさに晋州城だった。晋州城は、南は南江と河岸段丘が接近を阻止する。西側も岩の絶壁だ。攻撃されやすいのは北側と東側。ここには非常に広く堀をつくった。地形上、堀をつくるのは容易でないが、晋州城の堀は特別だった。

弱点があるとすれば、城が狭いということだった。拡張が可能なのが東側だけだった。政府は東に城壁を拡張するが、これが致命的な失敗となる。面積を広げただけで堀を台無しにし、東側部分を脆弱にした。第1次晋州城戦闘で朝鮮軍は劇的に勝利したが、第2次戦闘ではこの弱点が不幸を招く。

戦後に朝鮮は晋州城を改造するが、その後、晋州城は戦う機会がなかった。実に気になる。なぜこのような無意味なことをしたのだろうか。可能な推定は、典型的な机上の空論と行政主義だ。防衛力を強化するために兵士を増やす。兵士が増えるので城を広げる。ここで終わりだ。城の構造的な弱体化は数値では表せない。

一方、城を補強する時間と資源、人材は数値で決めている。首領は制限された時間内に文書上の課題を果たした。政府は努力する姿勢を見せた。十分でないか。政府の指針を指摘して、不必要な事業を展開して責任を追及される必要があるだろうか。

百歩譲って考え直しても、あれから今まで私たちは過剰行政主義の中に暮らしている。人々は正しい政府を求めるが、本当の問題は過剰政府という事実を知らない人がとても多い。強壮剤も過用すれば毒薬になる。