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光のあざ

Posted February. 12, 2022 08:47,   

Updated February. 12, 2022 08:47

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ウンベルト・エーコの本「美の歴史」によると、中世の芸術は光を取り入れるために努力した。大聖堂の精巧な窓ガラスを通して光が内部に入ると、その下にいる信徒たちは神聖さに感激したものだった。多くの文明で、神は光と同一視された。エジプトの「ラ」やペルシャの「アフラ・マズダ」も、すべて太陽の光を象徴する神々の名前だ。その光の中に抱かれたくない人間はいなかっただろう。

神聖が消えた近代でも、光はまた別の意味で重要だ。人々は南向きの住宅が好きだ。植物は光を受けなければ光合成できないというが、果たして植物だけだろうか。私たちの健康状態においても、私たちの心の状態においても、光は必要だ。光を必要としないところは見つけにくい。

ただ、生きていながら、非常に強力な光に包まれる経験はほとんどない。この時代の照度は、常に適正な水準で管理されているからだ。それで、光の詩を用意した。詩では、光は愛なのか、人なのか、経験なのかはっきりしないが、詩人は精緻でない生の光に強打された。どれほど強烈だったのか、あざが出来るように、ナイフに刺されるようによろめいたという。光によってあざができるほどの経験は、退屈な日常において大きな破格になるだろう。あふれる光の群れに埋もれる経験を想像してみる。日照量が足りず、「一握りの光」に飢えている我々にはうらやましいことだ。