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「朝鮮人奴隷5人、12エスクードで売買」 16Cイタリア人旅行記で明らかに

「朝鮮人奴隷5人、12エスクードで売買」 16Cイタリア人旅行記で明らかに

Posted November. 09, 2021 08:45,   

Updated November. 09, 2021 08:45

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「朝鮮からあらゆる年齢層の多くの男女が奴隷として来た。その中には美しい女性もいた。私も朝鮮人奴隷5人をわずか12エスクード(ポルトガルの旧通貨単位)で買うことができた」

1598年、日本の港町長崎に滞在したイタリア商人フランチェスコ・カルレッティが書いた『世界周遊記』の一部。当時、欧州の商人が出入りした長崎では、朝鮮人をはじめ日本人、中国人、ベンガル人、黒人など多様な人種の奴隷が取り引きされた。黒人男性の奴隷が100エスクードで取り引きされたことを考えると、朝鮮人奴隷の値は顕著に低かったことがわかる。これは、文禄・慶長の役の時、倭軍が多くの朝鮮人を連れてきたことで、奴隷市場での供給が溢れたことによる。

当時、日本に強制的に連れて行かれた朝鮮人の数は約10万人にのぼると推定される。このうち一部の女性は遊郭に売られ、外国商人や船員を相手にした。彼らについてマカオ、インドなどに行った朝鮮人女性もいた。

最近出版された『大航海時代の日本人奴隷』は、16世紀のポルトガルなど西欧植民帝国によるアジア人奴隷売買の実態を扱う。ポルトガル人の著者ルシオ・デ・ソウザ東京外国語大学特任准教授(国際地域学)は、文禄・慶長の役の時に日本に連れて行かれた朝鮮人だけでなく、フィリピン、メキシコなどに売られた日本人奴隷の記録も本に盛り込んだ。

日本に連れて行かれた朝鮮人の多くは陶工だった。当時、日本で茶道が人気を呼び、湯飲み茶碗など茶器の需要が急増した影響が大きかった。朝鮮侵略を決めた豊臣秀吉(1536~1598)は、権力を誇示するために黄金の茶室を作ったりもした。豊臣秀吉は戦争をして朝鮮人職人を連れて来るよう指示した。佐賀県などに定着した朝鮮人陶工らは、日本を代表する「肥前茶器」の花を咲かせた。日本は約700万個の陶磁器を西洋に輸出して得た莫大な利潤をもとに近代化に乗り出すことができた。

 

長崎には日本人商人によって拉致された日本人奴隷も多かった。ある日本人は11歳で大分県から拉致されてポルトガル商人ルイ・ペレスに売られ、ガスパール・フェルナンデスと改名した。当時、ポルトガルでは、ユダヤ教を異端とし、カトリックに改宗したユダヤ人も異端として捕らえた。そのため、フェルナンデスは主人と共にフィリピン、マニラ、メキシコなどに逃避し、家事労働をした。

ペレスは、マニラで朝鮮人奴隷ガスパール・コレイアを買った。コレイアは、主人を手伝って骨片と十字架を混ぜて偽造した殉教者の遺骨を売った。後に彼は、ペレスがカトリックで神聖視する聖母像をベッドの下に置いたことを証言し、ペレスは異端の疑いで逮捕された。著者は、「16世紀大航海時代のアジア人奴隷研究は史料不足で研究が十分になされなかった。さらなる研究を通じて、歴史で彼らの存在が明らかになることを望む」と話した。


イ・ギウク記者 71wook@donga.com