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祖母への献詞

Posted March. 10, 2021 08:07,   

Updated March. 10, 2021 08:07

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愛は常に制限的で条件的のようだが、そうでない場合もある。韓国系米国人リー・アイザック・チョン監督が「ミナリ」で再現する愛がそうだ。ジャンル的に見れば、非常に平凡な映画だ。移民の国である米国ではありきたりなのが移民の叙事だ。この映画を平凡でなくさせるのは馴染みなく、話も通じない所で生きていく祖母の存在だ。

これと関連して、見逃しやすいが核心的なシーンがある。ある日、ベッドで起きたことだ。「私、死にたくない。」おばあさんは部屋を一緒に使う幼い孫の言葉に驚く。孫は祈りを捧げれば天国に行くことができるという母親の言葉に従って、ベッドで祈りを終えた。しかし、夜尿症があるうえ心臓が弱く、いつか手術を受けなければならないと考えて死ぬのが怖くなったようだ。祖母はその言葉を聞いて、子どもを自分の横に来させて抱いてあげる。「大丈夫。おばあさんがお前を死なせはしない。」祖母は孫を安心させて眠らせる。

 

朝、驚くことが起こる。夜尿症の孫ではなく祖母がベッドにもらしたのだ。後に脳卒中だったことが分かる。孫の夜尿症がなくなり祖母の脳卒中が始まったのは、純粋に偶然のように見える。しかしそれは無意識の投影かもしれない。孫の病気を一手に引き受けようとする無意識。このように愛は意識だけでなく無意識ですら自身を差し出そうとする心なのかもしれない。孫が後に心臓手術をしなくてもいいという診断を受けるほど元気になったのも、そのような愛の力だ。よく考えてみれば、移民生活に疲れた娘夫婦が別れなかったのも、結局はその愛おかげだ。

子どもたちのために無意識ですら自分を差し出す母親、いや祖母が韓国の歴史には多い。「ミナリ」は、そのような人々への献詞であり哀悼だ。監督は、祖母が叙事の中心でないにもかかわらず、韓国の歴史で一度も中心でなかった祖母を叙事の中心だと感じさせる魔術をかけた。この映画が温かい理由だ。