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棍杖を捨てる

Posted February. 03, 2021 07:47,   

Updated February. 03, 2021 07:47

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(11)[オピニオン]棍杖を捨てる

権力は厳しく冷たいのが属性だが、温かい服を着る時がある。朝鮮の文豪、燕巖(ヨンアム)朴趾源(パク・チウォン)が着た服がそうだった。朴趾源の息子、朴宗采(パク・ジョンチェ)が書いた『過庭録』を見ると、朴趾源は官吏として棍杖の刑を下すことを非常に苦しんだ。やむを得ず棍杖で打たなければならない場合には、後に「必ず人を送って、打たれたところをもんでアザができないようにした」という。だが彼が完ぺきだったわけではない。彼も孔子の話が絶対的真実だと信じる時代の独善と頑なさから自由ではなかった。彼が生きた時代には万人が平等という考えは弾圧と弾劾の対象だった。時代の限界であり時代に順応した彼の限界だった。しかし彼はどの場合も温さを失わなかった。

朴趾源が1797~1800年、忠清道沔川(チュンチョンド・ミョンチョン)郡守だった時。そこには天主教を信じる人が多かった。彼は、先祖の法事を拒否し、万人を平等だと考える天主教徒が、親父と王も見違える危険な人々だと考えた。それは、彼が仕える正祖と主流知識人の考えでもあった。彼らを重罪人で治めなければならなかった。しかし彼らを捕らえ、棍杖を打つ心は穏やかではなかった。朴趾源が当時、観察使に送った手紙を見ると、彼らを殴って脅すことは、「刑罰を乱用するということだけでなく、官と民が争うこと」だった。

 

朴趾源は棍杖を捨てた。そして毎晩、業務が終われば教会信者を呼んで相談した。彼らが話しを切り出せば、その話の糸口を追って尋ね、言い聞かせ、導いて説明することを繰り返した。厳しい刑罰にも少しも動じなかった彼らが、朴趾源が言い聞かせる言葉に心を開き泣いたりもした。辛酉迫害、すなわち1801年の天主教徒迫害の時、沔川郡から一人の犠牲者も出なかったのは、そのような努力のおかげだった。朴趾源は、家父長的な性理学とは世界観そのものが異なる宗教の本質は理解できなかったが、そのような限界にもかかわらず、温みを失わなかった。

文学評論家・全北(チョンブク)大教授