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新羅、高句麗に続いて…百済遺跡が世界文化遺産に

新羅、高句麗に続いて…百済遺跡が世界文化遺産に

Posted July. 06, 2015 07:13,   

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百済歴史遺跡地区が、ユネスコ世界文化遺産に登録された。新羅と高句麗に続き、古代三国の文化遺産の人類史的価値が認められた快挙だ。忠清南道(チュンラナムド)、全羅北道(チョルラプクト)など百済地域では、一斉に歓迎の垂れ幕が掲げられた。韓国は昨年登録された南漢山城(ナムハンサンソン)に続き、計12件のユネスコ世界文化遺産を保有することになった。

外交部と文化財庁は5日、「4日(現地時間)、ドイツ・ボンで開かれた第39回世界遺産委員会で、百済歴史遺跡地区がユネスコ世界文化遺産のリストに最終登録された」と明らかにした。世界遺産委員会は、「百済歴史遺跡地区は、韓国や中国、日本など東アジア古代王国の相互交流史をよく表している」とし、「文化交流にともなう建築技術の発展と仏教拡散が如実に表われている」と指摘した。

今回登録された百済歴史遺跡地区は、△忠清南道公州市(コンジュシ)の公山城(コンサンソン)、松山里(ソンサンニ)古墳群、△忠清南道扶余(プヨ)市の官北里(クァンプクリ)遺跡と扶蘇山城、陵山里(ヌンサンリ)古墳群、定林寺(チョンリムサ)跡、羅城(ナソン)、△全羅北道益山市(イクサンシ)の王宮里(ワングンリ)遺跡、弥勒寺(ミルクサ)跡の計8ヵ所だ。主に百済・泗沘(サビ)時代に代表される後期の都中心の文化遺産だ。百済時代前半期を合わせたいわゆる「漢城(ハンソン)百済時代」の文化遺産は除かれた。

公州松山里古墳群に含まれた武寧王陵は、世界遺産委員会が言及した東アジア文化交流史をはっきりと示している。武寧王陵の蓮の花模様のレンガは、中国の梁から入ってきた「ボルト型レンガ墓(甎築墳)」の様式を示す。武寧王陵から出土した「銅托銀盞」(青銅に蓋がついた銀盞)は、日本の群馬県「観音塚」古墳で発見された「銅托有蓋銅盒」のモデルになった。世界遺産委員会は、百済の文化遺産が東アジア3国間の交流史を示すと共に、百済だけの独創的な文化的価値も含んでいると見た。百済史研究の権威で、この3年間登録の実務を率いた盧重国(ノ・ジュングク)百済歴史遺跡地区世界遺産登録推進委員長(啓明大学名誉教授)は、「これまで新羅に比べてスポットライトを浴びてこなかった百済の文化遺産が世界文化遺産に認められたことは非常に感慨深い」と強調した。

百済の善花公主伝説が込められた「薯童(ソドン)蓮祭り」の開催を5日後に控えた同日午後、扶余市内の各地では歓迎の垂れ幕が一斉に張り出された。会議が開かれたドイツまで行った安熙正(アン・ヒジョン)忠南知事は、「百済の歴史遺跡は古代の韓中日と北東アジアの平和と交流、繁栄の結果だ」と述べ、共にドイツを訪れた宋河珍(ソン・ハジン)全北知事は、「百済文化と歴史の再照明作業を積極的に推進する」と述べた。扶余邑に住むキム・ダルホさん(52)は、「今後、観光の活性化で地域経済が拡大することを期待する」と話した。

しかし一方では、財産権行使の制限を憂慮も声も起きている。扶余郡観光発展振興会のイ・ギフン会長は、「百済遺跡の周辺住民はこれまでも財産権の制限で少なからぬ苦痛を耐えてきた」とし、「政府が積極的な投資と支援で地域経済回復の期待を充足することを願う」と述べた。



sukim@donga.com